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人か、組織か(2)―〈拝啓、金融庁殿&総務省「情報公開・個人情報保護審査会」殿〉

 「不適切だが違法ではない」。
 法律的、あるいは行政的な場では、常套句なのだろうか。政治資金の不正使用問題を追及されて苦境に陥った東京都知事・舛添要一氏。そのご本人の要請によって諸々の疑惑行動を評価するいわゆる第三者委員会的な役割を委ねられた二名の元検察官弁護士が、記者会見(16.6.10)の場で多用した、弁護的な、巧みな言い回しである。しかしながら、その論理の立て方は、それが通用する特定の場を離れた一般市民の爛漫な常識や良識に向かっては屁理屈、詭弁の類(たぐ)いとしか映らない。さらに、やや法的ニュアンスで説明されるべき概念(ヒヤリング)について質問したマスコミ記者に対する〝素人が何を言うか〟的な侮蔑・嘲笑を含んだ弁護士の応答態度も禍し、舛添都知事に対する非難・攻撃は火に油を注ぐが如き勢いとなり、終には孤立無援、辞職勧告決議が都議会全員一致で可決されるに至った。無惨にも、舛添氏は都庁から追い払われる結果とはなった。
 拍手喝采する者多し。しかし、忸怩たる思い、誰の胸にも宿っていよう。この知事を選んだのは私(たち)都民だったのだ…、まだまだやってもらえる人ではなかったのか……。
 それにしても、人は何故、ある種の役割や権能の座に就くと、いつか正義に背を向け、それを悪事や不義に向けて濫用するようになるのだろう。見渡せば、重き役割を果たすには相応しからざる誠なき人物が、まさに此処彼処に蔓延っている。これが世の常なのか。
 悄然たる思いと共に、「至福の回遊路」(前回ブログ)を巡って折に利用する公園内の東屋に憩いを求めて立ち寄った夕べ、心ほのぼのとする美(うるわ)しい一齣に出会う幸せを得た。
 ひと組の先客、カンカン帽を軽く頭に乗せた半袖ワイシャツ姿の高齢者とイエロー色の大きな犬が戯れていた。犬は盲導犬として知られるラブラドール・レトリバー。「彼」が椅子に座ったままの飼い主に向かって、まるで子犬のように何度も尾を振り前脚を挙げては、大小響きの異なる甘え声で、何やら求めていた。求めるものは何?、と覗き込むと、「彼」が気づいて、私の方へ向き直ろうとした。その一瞬、「彼」はよろめいた。何と、「彼」の右前脚は、折れ曲がっていて、三つ脚でしか立てないのだ。それでも「彼」は、余程飼い主に可愛がられて人を疑う事がないのだろう、私に向けて一層強く尾を振り、「ワンワン」と挨拶をする。それに応えて「彼」の頭を軽くなでた時、「お騒がせして申しわけありません」と言いながら、飼い主が立ち上がってきた。
「ご覧のように、治らない大けがをしても、もっと行こうもっと行こう、っていつもこうなのです。私はもっともっと休ませてやりたいのですが…」
 ここから始まるしばしの会話、「彼」はすっと腹ばいになると、今度はじっと二人を見上げたまま、ひたすら話の終わりを待ちに待つ。
「ついこの前までは、どこに行っても駆けずり回って元気だったのに…。犬の加齢は本当に早い。あっという間に私の歳に近づいて……。まるで自分を見ているように、愛おしい。もっともっと、大切にしてやりたいと思っています」
 時が来たのが分かるのか、別れの挨拶が始まろうとする瞬間、「彼」はたちまち起き上がって、「ワンワン、ワンワン」と歓喜の甘え声を挙げ、さても飼い主を急かすかのように、不自由な3本脚で東屋を雀躍り出た。嗚呼、何らの打算もないこの「親子」、どれほどの愛と誠と深い信頼で結ばれているのか。胸打たれて私は、深々とお辞儀をして見送った。

 〈閑話休題〉
 さて、昨年本ブログ欄で取り上げた私と新生銀行との間で生じたトラブル(15.6.8「新生銀行、お前もか」)、ほぼ1年を経るうちに思わぬ展開を見せ、なにやら大事になりつつある。これは当事者の一方たる私の受け止め方であるが、かいつまんで言えば、約款違反とも思われる新生銀行の証券移管拒否行為を監督官庁たる金融庁がかばい立てしたのか、新生銀行が移管拒否を行った理由等が記載されているべき新生銀行による金融庁宛文書の開示請求(請求者:宗内敦)に対して不開示処分を為し、さらに、不開示を行った金融庁からその可否について諮問を受けた総務省「情報公開・個人情報保護審査会」が一方的に金融庁を支持するという、極めて遺憾な成り行きとなった。
 ここまで来ると、さすがに私個人の手には負えなくなった感がある。そこで、まずは本事案の経緯を広く世間に開くことにした。もしここで、①お読み下さった方々からさまざまなご意見・感想が得られたら、この問題に対する次なる対応に資することができる、また、②官公庁も絡んだ此度の一連の「出来事」は、私同様、金融・証券会社に金融資産を預ける国民一般にとっても普遍的に生じ得る、いわば公益に関する問題であり、これを貴重な資料として世間に伝えることは体験者の義務でもある、と考えたからである。
 だが、高齢の身がこのような問題に人生残り少なの貴重な時間を割くことの意味は何処にあるのか。時には慨嘆しつつも、関係資料を除いた本文だけで400字詰原稿用紙16枚分に至る本件経緯を以下に綴った。ご意見、ご感想をお聞かせ頂ければ、誠に有難く存じます。

 メーンバンクとして利用していた新生銀行で、「グロソブ」なる投資信託証券を他証券会社へ移管するよう申し出たところ、拒否された。これが発端である。私は当初、これは顧客を留めたいという、担当行員の場当たり的独断行為だと受け止めたが、そうではなかった。ちょうど1年ほど前、別の銀行(みずほ銀行)で、今回と全く同じように、購入した投資信託を他の証券会社に移管しようとしたところ、初めすげなく拒絶され、しかし、しばしのやり取りの後、担当者の謝罪とともに、移管が実現した。ところが此度の相手はまさに頑な。まずは担当行員らが、移管の規定はない、内部規定で移管はできないなどと理由にならない理由を挙げ、揚げ句に八王子支店長名の文書をもって、約款同封の上、約款第3章29に基づく行為である、と組織そのものの対応として正式に応えてきた。
 そこで、この約款を開き、第3章「振替決済」29「他の口座管理機関への振替」を見て驚いた。そこには、
 「(1)当行は、お客様からお申し出があり、当行が承諾した場合には、他の口座管理機関へ振替を行います。ただし、当該他の口座管理機関において、お客様から振替の申し出があった銘柄の取扱いをしていない等の理由により、振替を受け付けない場合、当行は振り替えの申し出を受け付けないことがあります。(2)前項に於いて、他の口座管理機関へ振替を行う場合には、あらかじめ当行所定の振替依頼書によりお申し込み下さい。」
 とある。はて、この規定のどこに、本事案に係わる移管拒否の根拠があるのだろうか。移管先証券会社は「グロソブ」を取扱っており、すでに移管の承諾も受けている。よもや、「お客様からお申し出があり、当行が承諾した場合には、……」の〝当行が承諾した場合には〟の部分が裏返し的に〝当行が承諾しない場合には移管できない〟といった、即ち、移管をするもしないも銀行側の随意という文意を含むとでも言うのか。そうでもなければ、この約款をもって移管拒否の理由とすることは到底できないはずであるが、もしそうだとすれば、理由を問わず移管の可否は新生銀行の顧客に対する勝手気ままな思い次第ということになり、人権侵害も甚だしく、無効な約款である。
 そこで、やむなく、この問題に関して、三つの機関に連絡し、また相談した。一つ目は、ある意味では法的な機関でもあり、国民が各所金融機関で購入した株式等の証券類を組織的に一括管理する「証券保管振替機構」(通称、ほふり)。しかし、移管拒否問題については〝遺憾ながら関与する権限・機能が無い〟とのこと。次いで、株式や投資信託などの金融商品取引に関するトラブルを公正・中立な立場で解決を図るとする「証券・金融商品あっせん相談センター」。電話で斡旋を申し込んだところ、極めて共感的で、即座に新生銀行本部に対して電話で斡旋行為に及んでくれた。が、〝銀行側が約款に従い移管はできないの一点張りで手に負えない〟とやむなく匙を投げた。そこで、三つ目に選んだのが、金融機関の監督機関たる「金融庁」であるが、ここからが、まさによもやの展開なのであった。詳細は別紙資料に譲るとして、なるべく簡略に、事実関係だけを述べていきたい。
 まずは、金融庁の「金融サービス利用者相談室」に、新生銀行の不法について訴え、善処を願ってみた(2015.3.27)。ところが、相談員の回答は〝民事不介入で、両当事者の当否についても言及できない。しかし、かくかくしかじかの相談があったことは新生銀行に伝える〟とのこと。そこで、金融庁が当方の訴えを正しく把握していたか、また新生銀行がいかなる移管拒否理由を金融庁に伝えているかを確かめることを主眼に、金融庁-新生銀行間の往来文書を見るべく、金融庁宛に「保有個人情報開示請求書」を送った(2015.4.13)。それに対する金融庁回答(2015.5.12)は部分開示(しかも、部分開示部分の文書の同封はなく、実質的に、全部不開示)、かつ「新生銀行からの回答は保有せず」という内容だった。
 とりわけ、新生銀行からの回答を保有していないとは、全く解せない内容である。まるで、問答無用といった感すらある。そこで、2015.7.9全部開示、かつ回答不保持の理由を求めて、異議申し立てを行ったところ、2015.9.18「情報公開・個人情報保護審査会」に諮問したとの返書が届く。そういう第三者委員会的役割を持つ行政機関があることを初めて知ったが、さてさて、ここからが、なお一層理解に苦しむ展開とはなった。
  2015.10.20「情報公開・個人情報保護審査会」(以下、審査会と略称)から金融庁の諮問文書(理由説明書)の「写し」を受領。同日、情報公開・個人情報保護審査会へTel。諮問文書内容へのコメントを求められたが、〝簡単でもよい〟との付言があり、何か当方が軽んじられ、すでにして審査会の結論がきまっているやの感触さえあって、不快であった。その後、金融庁の理由説明書を読んで、不快は怒りに変わり、審査会の期待に反する簡単ならざる反論的コメントを書いた(2015.10.26)。
 異議申立の趣旨は、①金融庁から新生銀行に向けての回付書面の内容開示、②新生銀行からの回答保有せずの理由開示の2点であった。これについての金融庁説明と私の反論コメントは以下の通りである。
 ①についての金融庁説明
「1 本件回付書面のうち一部不開示とした部分の不開示事由該当性について
 ……そして、本件を含む回付書面には、金融サービス利用者からの相談・苦情を受けた際の当庁の対応が記載されるところ、本件回付書面の不開示部分は、そのような本件の異議申立人からの相談に関する当庁の具体的対応が記載された部分である。
 このような当庁の具体的対応が記載された部分が開示された場合、例えば、開示を受けた者が改めて金融サービス利用者相談室に相談を行い、その具体的対応について開示を求めることによって、どの程度の相談内容であればどのような対応が行われるのか分析することが可能となり、金融サービス利用者相談制度を濫用するなど、監督行政の適正な遂行に支障を及ぼすおそれが認められる。
 よって、回付書面の不開示部分については、監督行政の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるため、法第14条第7号柱書きに該当する。(筆者註:原文のまま。一部省略。詳細は別添文書参照)」
 相変わらず、法第14条第7号柱書きに該当する、とは何やら分からぬ文言であるが、驚くべきは、この結論が、申立人をして「金融サービス利用者相談制度を濫用するなど、監督行政の適正な遂行に支障を及ぼすおそれ」が認められることを根因として導き出されている。即ち、私をして、かくなる人物として同定・ラベリングした上での結論である。
 この項についての私の反論コメントは下記の通り(原文のまま)。
 「恐るべし。ここでは、私をして謂われなく「監督行政の適正な遂行に支障を及ぼすおそれが認められる」人物として同定、ラベリングし、それに基づき、「よって、回付書面の不開示部分については、監督行政の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるため、法第14条第7号柱書きに該当する」と結論づけている。ここで「法」とは「行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律」を指し、その第14条第7号柱書きは「国の機関、独立行政法人等、地方公共団体又は地方独立行政法人が行う事務又は事業に関する情報であって、開示することにより、次ぎに掲げるおそれその他当該事務又は事業の性質上、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるもの」となっている。この論理に立てば、申立人がかかる不埒な人物であるか否かで、情報の開示あるいは不開示が決定される。それ故、まず、金融庁は申立人に対して、いかなる事実から、かくなる同定・ラベリングを為したのか、説明する義務があるだろう。私もここで、それを強く要求する。
 私有財産を自らの手中に正しく取り戻そうと苦悩する申立人に対して公的官庁が公的文書内で示したかかる同定・ラベリング、甚だしい名誉毀損と受け止めた。もし、これについて明白な説明あるいは謝罪無き場合には、別途慎重に検討して適切に対処することとなる。」
 ②についての金融庁説明
「2 新生銀行からの回答等を保有していない理由について
 当該保有個人情報が存在しないことを理由として不開示処分をする場合には、同情報が存在しないとの理由を示せば、行政手続法第8条第1項の要請する理由の提示として許容されると解されるし、仮に当該保有個人情報が存在しないことの要因を理由に付記した場合、当庁の具体的対応が推測される可能性があるため、保有していないことのみを理由に不開示としたものである。」(筆者註:原文のまま、全文)
 一言で言えば、本エッセイ冒頭で引用した「不適切だが違法ではない」を超える名迷文であり、万一、官公庁・司法の場は、こうした言い回しで議論をするところなのか、と背筋が凍る思いがした。この項についての私の反論コメントは下記の通り(筆者註:原文のまま)。
 新生銀行からの回答が無かったはずはない。この有無については答えず、なに故、「新生銀行からの回答等を保有していない理由について」にすり替え、かつまた、上掲の如き意味不明な記述をするのか。私の文章理解力では、全く了解できない。
 保有していないとは、本来、回答が無かったことを意味する。しかしながら、それ(回答書)を受け取っている、即ち、それを所有していることが理の当然であるにも拘わらず、「保有していないことのみを理由に不開示とした」とは、全く分からぬ論理である。回答が無かったならば無かったと述べ、回答が有ったならば、有ったとした上で、その不開示理由を論理的に示せば済むことである。」(原文のまま、全文)

 さて、金融庁説明書に対するコメントを「情報公開・個人情報保護審査会」へ送付して半年、審査会から2016.4.22付けで、諮問に対する金融庁長官宛への審査会答申書の写しが送られてきた。予想していた通り、金融庁の処分が正しいとする内容である。本事案を審査したのは第4部会、委員は元東京高等裁判所判事部総括、学習院大学法学部教授、國學院大學大学院法務研究科教授の3名、各自良識あるメンバーと思われる。がしかし、この委員会が、ひたすら金融庁の見解をそのまま披見・引用・踏襲して金融庁に同調し、私の提出したコメント・意見については論評の対象として採り上げることなく、何らの検討もしていない。これが、事の当否を論議する〝第三者委員会〟のあり方と言えるのか。驚くほかはない。
 私(異議申立人)が求める開示情報は、新生銀行によって未だ明快に示されていない移管拒否理由、それにつきる。その情報(拒否理由)は当然、新生銀行が送付した金融庁への回答文書に明らかにされているはず、否、明らかにされていなければならないはずのものである。それを開示することが何故できないのか。金融庁は「金融サービス利用者相談制度を濫用するなど、監督行政の適正な遂行に支障を及ぼすおそれ」がある人物だと私を貶めるまでして開示拒否の論を立て、此度委員会は、この辺りを名誉毀損に該当しないよう巧みに曖昧模糊たる文言に書き換えこそすれ、文意は変わらず、同じ結論に導いている。また、金融庁に対する新生銀行からの回答文書があったかなかったかを問う素朴な質問についても、申立人の問いに何ら触れる(応える)ことなく、金融庁の説明をそのまま踏襲し追認して、金融庁意見を妥当と結論づけている。
 下種(げす)の勘繰りかもしれぬ。初め新生銀行が犯した不当行為を監督官庁の金融庁がかばい立てし、さらにその金融庁のかばい立て論理を委員会が正当化して事実関係を隠蔽する。新生銀行が証券移管を拒否した理由は何なのか。先述を繰り返すが、その拒否理由は当然金融庁への回付文書で明らかにされているはず、否、明らかにされていなければならないはずである。その内容を私が知り、もしそれが新生銀行が当初私に示した拒否理由とは異なるものであっても、納得できるものであれば、事はそれですべて終了する。それをここまで隠蔽されるとなれば、遺憾ながら、新生銀行とのトラブルは、もはや、法治国家ではある意味最終的な第三者委員会とも言うべき司法の手に判断を委ねる以外に道はない。
  だがしかし、冒頭に述べた如く、万一、司法の場が「不適切だが違法ではない」式の論法がまかり通るところであれば、問題である。因みに、本事案(新生銀行の移管拒否)を仄聞して、投資信託購入時には移管項目は存在していない、また「お客様からお申し出があり、当行が承諾した場合には、……」は承諾しないことがあり得ることを前提にしているといった理由で、論理的には移管拒否しても違法ではない、と感想を述べた司法関係者もなくはなかった。
 そこで、しばし立ち止まって、まずは世間一般のご意見を聞いてみるに如くはない、と考えた。心情を披瀝し、客観的な資料をそのまま披露して長々と綴ったのはその故である。いじめ・意地悪文化の元凶となる〝泣く子と地頭〟を打ち払うの思いと共に、いつか大きくなったトラブル。ご意見、ご感想をお聞かせ頂ければ、誠に有難く存じます。

 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手を下されば、有難く存じます。

〈追記〉 2016.7.5
 本ブログを書き終えて、ふっと情報公開に係わるネット情報を見てみた。何と無知であったことか、今や各地〈各自治体)に隈無く「情報公開・個人情報保護審査会(審議会)」なるものが置かれているではないか。その様々なページやサイトを流し見ていたところ、興味深いケース、興味深い事柄を見出した。家畜保健衛生所によって強制的に立ち入り検査を受けた開業獣医師が、立ち入り検査が行われるに至ったいきさつを把握するために、当該家畜保健衛生所に対して関連する行政文書の開示請求を行った事例であるが、この情報開示の可否を茨城県情報公開・個人情報保護審査会が当該家畜保健衛生所からの諮問を受けて検討、このプロセス・内容が、私の場合と極めて類似しているのである。
①まず、家畜保健衛生所は、
「当該文書の存否を答えること自体が,当該事業を営む個人の利益を害することとなり,条例第7条第3号アの規定により,不開示とすべき情報を開示することになるので,存否を答えることはできないが,仮に当該文書が存在するとしても,条例第7条第3号アの規定により不開示になる文書である。」
 と、条例第10条の規定により,その存否を明らかにしないで不開示決定を行ったとしている。
②これに対し、開業獣医師は、
「開示をしない理由の“条例第7条第3号アの規定により,不開示とすべき情報を開示することになるので,存否を答えることはできないが,仮に当該文書が存在するとしても,第7条第3号アの規定により不開示になる文書である。”は不可解な記述である。不開示とされる行政文書が存在する場合,存在の有無を明確にできない理由はなく,文書は存在するが一定の理由により開示できないとすればよいはずである。なぜ,文書の存在すら不明確としなければならないのか明確な説明を求める。」
 と、文書の存在を前提として、不開示理由の説明を求めるなど、情報開示へ向けて異議申立を行った。
③しかる後、諮問を受けた茨城県情報公開・個人情報保護審査会は、
「実施機関が行った不開示決定は,妥当である。」
 と、文書存否についての申立人の問いには全く応えることなく、家畜保健衛生所の見解をそのまま受ける形で結論を出している。

 感想を言えば、唖然とした。私の場合との驚くべき類似性に驚いた。有るはずの文書を何が何でも無いとするための、こじつけ・詭弁。そこにはあたかも、問題別に(例えば、開示を拒否する正当な理由が見出せない場合)特定の回答フォーマットが用意されているのではないかと疑わせるほど似通った論法が用いられている。こうした詭弁と論法は、権能の笠を着た傲慢さが無ければとてもできない業ではないか。これはもはや、民主社会における「第三者委員会」とは到底呼べるものではないだろう。
 上例がその後どのように展開していったかは不明である。が、此処までの仔細は、茨城県がネット上に情報公開しているから妙である。
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「至福の回遊路」─私の健康三原則:「笑顔で楽しく、歌って歩く」─

 我が国は、世界有数の医療先進国である。それかあらぬか、日本人の平均寿命は、男性80.5歳、女性86.8歳となって、世界に冠たる長寿国になった。これはこれで真に喜ばしい……。が、平均寿命の延びこそよけれ、介護を必要としない「健康寿命」は一向に伸びず、他方で、さしたる病因も分からぬまま、心と体が一体化して機能低下し、その行動に責任能力の無い高齢の認知症患者が増え続け、深刻な問題となっている。認知症者が生まれることによってもたらされる家庭崩壊、引き起こされる交通事故、その他もろもろのトラブル・犯罪、また、認知症者が被介護者となることによって受ける虐待、あるいは殺傷事件……。厚労省によれば、2012年の時点で65歳以上の高齢者7人に1人が認知症で推計462万人、それが年々増え続けて、2025年には高齢者の5人に1人が認知症に罹患し、その数700万人を超えるという。
 かくなる情勢下、ある意味必然なのか、高齢者≒認知症≒社会的危険者、とする憂うべき風潮が世の中に広まりつつある。過日、公共放送のNHK総合テレビでさえ、その人気番組<あさいち>で「いつやめる? 高齢者の運転」のもと、隠されたこの主題を世にアピールしていた。恐ろしや、高齢者をいわば「役立たず者」として社会的に排除しようとする動きは、末は「姥捨て山」へと繋がる思想であり、認知症患者への虐待、殺傷行為もこれを心理的基盤として生まれていよう。スローガンとして唱えられる高齢者福祉とは裏腹に、高齢者を取り巻く心理社会的環境はますます厳しい。かつて、『子どもの世話にならずに死ぬ方法』を書いた俵萠子氏が「幸せな老後などない」と断言したが、まさしく然り。看取る者乏しき老人・介護施設で悲憤・諦観の中で人生終焉を迎える老齢者の如何に多いことか-。
 一時(いつとき)でもよい、人生終盤こそ、せめて健康で幸せの時を過ごしたい。古今東西、誰もが願う切実な思いである。しかし、何事も求めて容易に得られるものではないのがこの世の通理。苦難の人生を歩んできた人ほど、よく弁えている。だからといって、諦めてはなるまい。人それぞれ、それぞれのその人生道の中で、それはひょんなきっかけから与えられることもあるからである。

 どうにも胸痛が治らず、病院で診てもらったのが2010年3月、東日本大震災のちょうど1年前のことである。見事に冠動脈が1本閉塞、心筋梗塞に見舞われていた。カテーテル検査を行った若い医師が、冠動脈にステントを埋めて血流を図らねばやがてもう一本の冠動脈も閉塞して命が危ない、と手術を勧める。それは断って退院したが、その後、薬服用の身になった。かなりの重篤患者だったのか、医師から与えられた薬は何とバイアスピリン、バリエット、アイトロール(朝夕2回)、エースコール、アーチスト(朝夕2回)、リピトール、シグマート(朝夕2回)の1日10錠。しかし、当初こそ胸痛が減じたが、すぐに薬効は失せ、それどころか、その副作用なのか、胸痛はかえって激しくなった。74と言う高齢が、嫌でも死を意識させるようになる。〝このまま死んでたまるか〟。この思いが、ライフワークとしてきた「カラー・ピラミッド・テスト」研究の集大成としての『カラー・ピラミッド・テスト入門』へと一挙に走らせた。
 教員生活を退いてから4年、まだ先があるとばかり、のらりくらりとしていた執筆意欲が猛然と昂ぶる。爾来半年、共同研究者の妻と二人、寝る間も惜しんで談論風発、年明ける頃には草稿を書き上げた。だが、その後が全く想定外だった。それまで私との関わりの中でカラー・ピラミッド・テスト関係の書籍とテスト用具を一手に販売してきた図書文化社に出版依頼をしたところ、まさかの辞退があり、立ち往生した。致し方なく、テスト関係の出版社にいくつか当たったが、どこからも色よい返事は来ない。さもありなん。「ロールシャッハテスト」や「TAT」などと異なり、このテストの利用者は、国内外ともに少なく、営業ベースの採算にはとんと乗らないからである。だからといって、もちろん、出版を諦めるなどできるわけがない。あれこれ思案の末に行き着いたのが、自費出版計画、そして出版元となる出版社の設立。こうして、「書肆彩光」を起ち上げた。
 自費出版と言えば、古くは島崎藤村の「緑陰叢書」が有名である。藤村は叢書第一篇として『破戒』を刊行。これが大成果を得た後、『春』、『家』、『微風』(短編小説集)と次々続刊して、いずれも成功している。当世で言えば、私と同年、太宰治賞作家の秦恒平氏の「湖の本」が知られている。ここで氏は、すでに絶版となった自著を毎年何冊も復刊して、すでに127冊を数え、なお留まることのない状況である。こうした、言わば大物の自費出版とは異なる私の「書肆彩光」がはたして成功するのか否か-。しかしそれは、全くの杞憂に過ぎなかった。
 序(ついで)である。私の「書肆彩光」も『カラー・ピラミッド・テスト入門』の他に、絶版となっている数少ない自著、そして新刊を加えることにした。発行部数は、真の読者を対象に常に限定100とし、2011年5月、まずは『カラー・ピラミッド・テスト入門』と『教師の権威と指導力』(文庫本)を刊行、インターネットのアマゾンを介して販売を始めた。定価は、前者2000円、後者600円。印刷費用に送料とアマゾンの仲介料を足し合わせると、実費用の半分ほどの値段である。しかし、金銭的な採算は、初めから問題外である。要は、私の刊したものを是非にも必要としている人に届けたい-、これに尽きる。この心意気が通じたのか、名も無き出版社とは言え、両書とも、真の専門性を追求する方々に、毎月着実に求められ、出版を続ける意欲が支えられた。同年12月にエッセイ集二冊、『歌は心の帰り船』・『二言・三言・世迷い言』を彩光文庫シリーズとして続刊、そして12年7月『カラー・ピラミッド・テスト入門』第2刷、13年5月『ソーシャルケースワークと権威』(編訳)、14年5月『教師の権威と指導力』第2刷を刊行した。
 恃みとしていた出版社から全霊を傾けて成した書の刊行を断られた時、目の前が真っ暗になり、一瞬、道を失った。けれども、道はあった。しかも「禍転じて福」とばかりに、「健康」という,思いも寄らぬ大きな恵みをも与えてくれる道だった。
 一昨日、久しぶりに、『歌は心の帰り船』に注文が入り、いつものことながら、早速に注文品を「スマートレター」に入れて外に出た。途中、近くのコンビニ前に郵便ポストがあるが、終点はそこからさらに歩いて約20分の郵便局。1日2回の回収しかない郵便ポストに入れるより、郵便局のカウンターで出せば、半日、あるいは1日早く読者に届く。雨が降ろうと、風が吹こうと、はたまた槍が降ろうと、配送手順はいつしか地元郵便局への道行きとなっていた。そして投函した後は、気分のままに、近くを流れる北浅川まで出て川岸を辿り、あるいはまた、川岸沿いの公園内に咲く四季折々の花々を一回り楽しんで帰る。この間、万歩計で約6000~8000歩、往復時間50~60分。このひと時、この一回りが、私にとってまさにかけがえのない心身養生の健康道,名付けて「至福の回遊路」とはなった。
 読者を得た喜びと感謝。躰は和やかにぬくもり、軽やかに、またゆるやかに前に進む。この時、心の中の何者が選ぶのか、胸元には都度に懐かしい歌が浮かんで、時には思い入れよろしくいつか口ずさんでいる。
 *雪の白樺並木 夕日が走る 
   走れトロイカ ほがらかに 鈴の音高く
 *ひびけ若人の歌 高鳴れバイヤン
   走れトロイカ かろやかに 粉雪けって
                  (トロイカ)
 唄えばたちまち、目前の景色がたなびいて、その彼方から懐かしいあの人,かの人、あの出来事が待つ雪の草原地帯が見えてくる。
 歌つれづれに書き紡いだ『歌は心の帰り船』。「リンゴの歌」「啼くな小鳩よ」「炭坑節」「白い花の咲く頃」「雪の降る街を」「かあさんの歌」「トロイカ」「人生劇場」「人生の並木路」「赤いハンカチ」「夜のプラットホーム」「有楽町で逢いましょう」「バラが咲いた」……「月の沙漠」。新しい読者が生まれる度に、この懐かしい歌の数々が浮かび出て、ひたすら真心をもって私の人生を支えてくれた父・母・きょうだい・恩師・友人・初恋の人……、銘じて忘れがたき人たちが蘇り、あたかも昨日の如く、再び三度(みたび)、在りし日のあれこれが胸裡を巡る。歌こそまさに、珠玉の如き愛と誠の玉手箱。これを開ける至福の鍵を授けてくれたのが、誰あろう、今や我が分身の「書肆彩光」であり、その読者の方々なのである。
  〈閑話休題〉
 「至福の回遊路」を巡り始めて程なく、ふっと気がついた。襲われるたびにいつ心筋梗塞の発作が起きるかと我が身を不安と怖れで苛んでいた胸の痛みが、いつしか和らぎ、めったなことでは生じなくなっている。これに纏わるエピソードはすでに別の文章の中で明かしたが(「過ぎたるは及ばざるが如し―教育・しつけ・指導における副作用―」14・10・30)、万一関心のある方はそれを見て頂くとして、いずれにしろ、まるで天から恩寵が下されたかの如く、私はここしばらく、ほとんど薬無用で過ごせるようになっている。
 病を得てからのあれやこれやの推移が、私をして信じさせた。不幸や禍ばかりが続くはずはない。何かが機縁となり転機となって生まれる新しい道が、誰にもきっと来るはずである。顧みれば、40年むかし、職場で苦しむ私を見兼ねて、二人の恩師が「研究者への道」を拓いてくれた(『歌は心の帰り船』・22話「恩寵(船頭小唄)」)。そして人生終盤の此度、様々な読者が礎石となって、幸せと健康をもたらす「至福の回遊路」を与えてくれた。これもまた恩寵と言わずして何と言おうか。今、私は、しみじみとこの幸せを噛みしめ、折角のこの回遊路から、以下の如き、自己流私説「健康3原則」を得た。

  〈私の健康3原則〉
① まずは、歩くこと 2本足動物となった人間の、健康保持の最も基本的な運動である。歩き方、時間や距離にいろいろバリエーションはあろうけれど、要は、次の食事がおいしく摂れるように、なるべく毎日、自在に歩き回ればよい。血行促進、筋力鍛錬等々、難しく考えることはない。身体を鍛える運動・スポーツは別次元の問題である。
② 日々、笑顔でいられること 歩くことが健康の源とは、実は誰もが知っている事柄である。だがしかし、何(なに)某(がし)かでも幸・楽の気分が基(もとい)になければ、外に出て歩こうという気持ちには中々なれないのが人情、そのためにこそ、日々を楽しめる何かを持たねばならない。心やさしい伴侶や子ども・孫たちと一緒に居れば、それ以上望むものとてない贅沢であるが、せめて老後には、思い入れて一心同体となるほどの趣味の世界を持つことが肝要である。何のために、といった目的意識など無用、ひたすら楽しみを味わうために、継続的に楽しめる目標を身近に置く。動物飼育であれ、楽器演奏であれ、囲碁・将棋のゲームであれ、対象が何であろうと、それと愛しくふれ合うならば、相手は必ず、笑顔の日々を手向けてくれる。因みに私の笑顔の元は、「書肆彩光」の他にも、庭で楽しむ果樹栽培と文芸同人誌『琅』の編集・発行がある。果樹栽培では、ラ・フランスの樹に長十郎ほか4種の梨、王林ほか3種のリンゴを接いで、名付けて「梨(り)りん」が自慢である。
③ 歌を聴くこと、口ずさむこと 恐らく、歌ほど簡明・率直に心の琴線に響くものはない。民謡、童謡、歌謡曲、歌曲、宗教歌等々、人はそれぞれ、長い人生の中で様々な歌に魅せられ、感動してきた。思い出の歌ならどれでもよい。折にふれて引き寄せ、聴いて、歌って、弾いてみればたちまち分かる。歌に結びつくあの人、かの人、あの出来事が蘇り、往時そのまま、喜怒哀楽の情が立ちのぼる。私にとっては、巡り来るこの情感世界への回帰が人間(性)への関心、人とのふれ合い、情意の交わりに向かわせる源となる。昨今、各所で「音楽療法」なる心理的療法が唱えられるが、原理はなべてここにあろう。否、なくてはならぬ。もちろん、これもまた「幸・楽」の基あってこそ生まれる道筋である。

 「至福の回遊路」から得た「笑顔で楽しく、歌って歩く」我が健康法。蛇足だが、健康を第一と考えるならば、美食や過食、飲酒・喫煙などをほどほどに抑えることは、元より当然のこと。「姥捨て山」行きは、今少し後のことになるのではなかろうか-、ふと思う、昨今である。

 死に臨む親の介護に尽くしてきた幾人もの友人が、かつて本音を述懐した。「もう見ていられない、やっていられない、いっそ死んでくれたら…と何度思ったことか」。親の病苦を見るつらさ、介護のつらさ、その葛藤の末に絞り出される声である。
  「生・老・病・死」は天の定め。老いて、病んで、死にゆく道は、誰にも分け隔てなくやってくる。いつか来る道、いつか行く道である。この道から抜け出す方策が、一体、どこにあるのだろう。「姥捨て山」よろしく、どこぞの施設へ自ら望み、あるいは泣く泣く送り出す向きがあったとしても、だれが責めることができようか。
 しかし、「姥捨て山」に捨てられる姥は、その悲嘆の最中でも、自分を捨てる領主や子どもに様々な知恵を授け、終には国を救い、子どもを痛苦から助けたという。思うに、病苦のつらさ、介護の辛さから抜け出す道は、老後を可能な限り健康に過ごし、その分だけ介護を授受する期間を短くして、己(おのれ)を、また介護者を楽にする以外にはない。
 多くの老齢者が、独立独歩、人の世話をなるべく受けぬよう、老後の暮らし方を独自考案しては実行している。もしその中に、本人およびその次世代の苦労を軽減させるに役立つエッセンスがあるならば、それこそまさに、「姥捨て山」民話に叶う現代版訓話ではなかろうか。本稿「健康3原則」が、そのせめてもの例話の一つになり得るなら、大いなる「幸・楽」である。-妄言多謝。

〈追記〉
① 前回ブログにあるように、昨年11月、国際日本文化研究センター(日文研)において、日文研初代所長・梅原猛氏の記念講演(「戦後70年を迎えて」―現在、未来へのメッセージ)を聴いた。氏はその折、「同世代の多くが認知症に陥るなか、齢90になっても己は健康、さらに10年生きて100歳に達した際には、再度記念講演に呼んでもらいたいもの」と述べてますます壮ん、旬日で傘寿を迎えようとしていた筆者にとっては,とりわけ感動的だった。10年後、是非とも、京都・日文研での再会を得たいものである。
② 本稿を終えるに当たって、お目にかかったことはないが、五・七・五の俳句形式でなければ到底表すことのできない、逝く人送る人の鮮烈な交情の世界を描いた、市井の女流俳人・溜谷哲子氏の句を二つ挙げたくなった。
    おぼろ夜の介護の夫(つま)の便を褒め
    もういゝと残し逝きけり花菜漬
  介護福祉に携わるすべての方々に捧げたい。

 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手を下されば、有難く存じます。

稀勢の里、「一日、四股百遍」で横綱へ-礼節の日本文化を守る-


 フィギュアスケートの羽生結弦選手が、バルセロナ(スペイン)におけるグランプリ(GP)ファイナルで、男女の性(さが)を超えた神業ともおぼしき華麗な氷上舞踏の美を演じ、恐るべき史上最高スコアを出した(15.12.12)。これを神とも讃える内外の声が上がり、それを凱旋帰国とも言うべき成田空港で聞かされた際の同選手の感想がまた麗しい。簡約すれば、「光栄です。でも、そのように応援して下さる方々こそ、私にとってはなによりの応援、神様です」。
 これが二十歳そこそこのアスリートの咄嗟の述懐かと驚嘆し、また、これぞまさしく芯からよき日本文化(日本の心)に育まれ来た人物だと、感銘した。

 過日、国際日本文化研究センター(日文研)における梅原猛先生の講演(「戦後70年を迎えて」私の戦後・京都の戦後―現在、未来へのメッセージ)を聴く機会を持った。その講演の終盤で先生が語ったところを不遜にも要約すれば、「平安時代340年、江戸時代250年という世界史的にもまれに見る平穏社会の中で培われた日本民族の平和文化を、闘いを好む欧米の戦争文化に代えて、世界の“周辺文化”から世界の“中心文化”にしていくこと、それが人類を破滅の道から救う唯一の道程である」。まさしく然り。そして、世界を救うべき日本文化を最もよく象徴するのが相撲と柔道、我が国古来の伝統スポーツではなかろうか。
 平和文化が産み落とした日本伝統の相撲と柔道。どちらも必ず、「礼」に始まり「礼」に終わる。もちろんこの「礼」なるものは、単なる形式的な儀式ではなく、勝って驕らず負けて動じず、而して敗者を労り勝者を讃える礼節の精神、ひいては勝敗の後なお大きな和の世界に戻るべしという世界観を具現化し、体現化したものである。これを言い換えれば、日本人の美学、さらには「日本の心」である。しかしながら、この日本の心が、近年、競争や闘争を旨とし勝敗にこだわる欧米異文化に侵され、その根底から損なわれつつある。
 野球、サッカー、ラグビー、バレーボール、陸上競技・・・等々、様々なスポーツの世界で勝者がこれ見よがしに顕示するあのガッツポーズ。勝てば官軍の驕りの極み、敗者を慮る礼節などかけらも見られない。これが外来スポーツの世界に限られるならばまだ許せるが、今や最も礼節を重んずるべき日本柔道の世界でもすでに一般化しつつあるとなれば、もはや何をか言わんや。柔道が初めて取り上げられた1964年の東京オリンピックで、オランダのアントン・ヘーシングは、日本選手を破って金メダルを奪った瞬間、歓喜して畳の上に駆け上ろうとした同国関係者等を咄嗟に手を上げて阻止した。この勝者ヘーシングが学び取った日本文化の粋、礼節の世界も今はむかしの話となった。オリンピック、世界選手権等で優勝を決めた瞬間に見せる日本人選手とコーチ陣の狂喜乱舞のあの様(ざま)は、一体、どうしたことか。敗者を尻目にひたすら歓喜する異文化選手たちと全く同じ、真にまことに嘆かわしい。日本柔道は、すでに「日本の心」を失った日本文化である。思うに、日本の柔道は国際化が過ぎて、梅原先生が言うところの「周辺文化(日本文化)を世界の中心文化へ」とは真逆に、むしろ異文化を我が国に導入する窓口にさえなっている。
 これに比べ、相撲道の世界にはまだ救いがある。斯界のトップに立つ二人の外国人横綱を見れば、一瞬、慨嘆する。片や勝つために過ぎたる張り手を連発し、手にした賞金の束で勝利を誇示(白鵬)、こなた優勝しては「勇気と希望を与える相撲を取り続ける」などと傲岸な言葉を吐く(日馬富士)。日本の心とはあまりにかけ離れた斯界最高位者(横綱)のこうした所作・言動は、相撲道もまた悪しき異文化に害されつつあることを示しはするが、他の力士一般、また相撲界全体は未だ礼節その他のよき日本の伝統の中にあるやに見える。この体質の中で、もし一人でも、身も心も「礼」に始まり「礼」に終わる礼節の横綱が現れるなら、相撲道はしっかりと日本の心を持った日本文化として留まり得る。そこで、「出でよ、横綱、心ある横綱!」への思いが、ここ数年、私を捉えて放さない。

  ところで、自ら言うのもおこがましいが、筆者は子ども時代、相撲が滅法強かった。昭和10年生まれの私の身長と体重は大人になるまでほぼ一貫して当時の日本人の標準値よりやや低目、その‘最盛期’でも165センチ、60キロにすぎなかった。その上、大いに短足胴長で、走るのは遅く、駆けっこが大の苦手だった。それがひとたび組み合ってはっけよいともなれば、躰の大小などは何の其の、一回り二回り、いや、三回り大きな相手でも、ほとんど右四つで寄り切るか、下手投げで投げ倒した。
 中学3年時の夏、当時住んでいた男気盛んな福岡・筑豊炭田内の炭鉱部落(明治鉱業所天道炭鉱)で開かれた中学生相撲大会が忘れられない。私は相撲部や柔道部に属する猛者たちを次々と破って最初の五人抜きを達成したが、これはしかし、日頃楽しむかりそめの相撲ごっこでも常のこと。何ゆえそれほど強かったのか-。理由は単純明快、簡潔そのものである。
 何よりも先ずものを言ったのは、相撲を取るのに都合のよい短足胴長の体型だった。恥ずかしながら、私は、私よりはるかに長身の人たちに匹敵する図太い胴長の上半身と、それを支える短く太い頑丈な下半身を有していた。その有り様は、例えば優に180センチは超えて日本人としては大変大柄な若き盟友、東京学芸大学名誉教授の松村茂治氏との対比関係の中でとらえればまさに一目瞭然である。私は氏と並んで歩くとき、これは掛け値なしに疲れるが、いつも横上向きに首をひねり、視線を上げて会話する。しかし、いったん椅子に座ってテーブルを挟んで真向かえば、友の顔はこちらと全く同じ高さ、視線はまっすぐ前に向けたままで済み、疲れることなどさらさら無い。
 この特徴ある頑丈な躰を、抜群の運動神経で巧みにバランスを取って組み合うのが私の相撲である。押されたら横に動いて相手を崩し、右に左に動かれればそのまま密着して相手の崩れた体勢につけいり、もし相手が引こうものならその力を利用して一気に寄り切る。たったこれだけの素朴な戦法であるが、これを成り立たせたのが、短い両足でぴたっと重心を保って上体を移動させる抜群のバランス感覚だった。これは、40歳を過ぎてから始めた私のスキー上達の様を知れば誰にもすぐに理解できるはず。私は何度かゲレンデに通ううち、やや両足を開き加減とは言え、見る間にくねくねと滑り降りる‘クリスチャニア’なる技術を我流で身につけ、まだ疲労が来ないスキーの初日~2日ではまるで転ぶことなく、スキー歴長い仲間たちがあちらで転びこちらで倒れる様を尻目に、すいすいとゲレンデを滑り降りていた。自慢ついでに明かすと、私は高校時代、学校の体育館をえっちらほと逆立ちで一周したこともある。
 では、我が身を自在に操るこのバランス感覚が天性のものかと言えば、いや、けっしてそうではない。実は、私はこれを、中学時代から高校時代、横綱気分で校舎や庭の片隅でひっそり行う、いわば相撲の‘四股百遍’の練習で身につけた。やって見れば、それは誰にもすぐ分かる。見事に足が上がる名横綱の千代の富士や貴乃花のようにはいかなくても、精一杯片足を上げて踏み下ろしたときの感覚がキーポイント。足の開きが広すぎれば(重心が低すぎて)前のめりになり、狭すぎれば(重心が高すぎて)ふらり揺れ動く感じが残る。しかし、失敗にめげずこれを何度も繰り返すうちに、やがては前にのめらず、左右にもぶれずにぴたりと収まる、即ち、四肢と躯幹の最も安定した重心位置が見つかり、「さぁ、矢でも鉄砲でも持って来い」といった無双の体感が得られるようになる。このようにして得たバランス感覚と体感の中で、我流ながら私は、咄嗟に生じる相手の変化やゲレンデの凹凸を超えて、断然たる安定性を保ち続けたのではあった。

 日本の心を体現し得る横綱出でよ、と念じ出した頃、二人の力士が候補に挙がった。第一候補が大関・稀勢の里、第二候補がモンゴル出身の大関・鶴竜である。しかし、その後、鶴竜は見事横綱に昇進したものの、如何せん力量が不足し、他の二人のモンゴル人横綱の影に隠れて、とても相撲界の象徴たり得ない。一方稀勢の里は、資質十分なるも、これは何か一本芯が欠けて、肝心なところに来るとつまづき、期待を裏切り続けている。にも拘わらず、この間私は、彼の昇進を期待して、恥ずかしくもこのブログ欄に二度、三度と応援歌を送っている。稀勢の里に‘大和男の子’を期待する」2012年9/23大和男の子、稀勢の里! 北の湖二世」2013-11-24、横綱は美学を持つもの」2014-11-12)。
 さても、稀勢の里には、致命的な欠陥がひとつある。それは、土俵上における所作を見ればたちまち分かる。立ち合い前の四股はおざなり、白鵬などのぴたりと収まる見事な演技に比べて、なんとも頼りなげなその姿態。足の開きは狭く、巨(おおき)きな上半身を支えるには余りに重心が高すぎる。これでは、躰が離れ、あるいは揉み合い、混戦になった時、躰がぐらつき、相手の変化への対応が遅れて闘いに敗れても仕方がない。
 スポーツなるもの、その戦略も含めて、習得すべき理論と実際は、本来極めてシンプルなはずである。例えば、日本野球界の名将・野村克也氏はある年、「分かりやすい野球」をモットーに、「野球はもともと難しいものではない。イチロー君のような、基本に立ち返った分かりやすい野球を心掛ける」と公言し、「投げ方や打ち方などにこだわらない。オーバースローでもアンダースローでも、ダウンスイングでもアッパースイングでも、狙ったところに投げて、打つて、走ればよい」との明快な原理で選手を引っ張り、その年、ヤクルト球団を美事にリーグ優勝に導き、さらに日本一にも輝かせた。
 また、女子サッカー「なでしこジャパン」は、2011年、これまた知将・佐々木則夫監督の指導力の故か、はたまた名選手・澤穂希選手のリーダーシップの故か、周知のように、功名心を抑えた全メンバーの固い連帯意識と徹底した連動性をもって、世界チャンピオンの座についた。体格優れ、個人技術も高い外国チームを破るにはこれ以外に勝つ道はない、と選手全員の認識・理解が一致し、ひとすじに結束した結果である。
 相手の欠陥につけ入り、重心の定まらない相手にはそこを突く。理の当然である。賢い力士は、対稀勢の里戦では、必ずや、変化を旨とし、崩して重心をぐらつかせる戦法を取るだろう。もし私が相撲の神であるならば、今の稀勢の里なら小指一本で突いて倒せる。因みにこれまで、稀勢の里が敗れたパターンの過半がこれである。稀勢の里の体力および相撲技術は、すでに十分なものがある。よって、横綱になるには、何を置いても先ずは相手の動きに惑わされずに併走し得る安定した重心付図を見い出すこと、これにつきる。そしてその方法は、「一日、四股百遍」、これまた、これにつきるだろう。さすれば、稀勢の里は遠からず、横綱の地位に昇ることになる。
 嘘か真か、戯言か。私はかつて、大関・武蔵丸を横綱・武蔵丸に導いた(「スポーツ笑談・勝負の極意」『二言、三言、世迷い言』書肆彩光、2011)。この度の話、その話と合わせて、大関稀勢の里に届くことを秘かに願っている。

 さてさて、いろいろ述べ来たったが、つまるところ私は、稀勢の里の大フアン。この力士を横綱にして日本の礼節文化をも守る、それが願いなのである。ご笑読、心より深謝します。

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戦争は、人類にとって究極の敗北-戦後70年、私の所感-

  戦後70年ともなれば、深刻な戦争被害体験を持つ人の数がめっきり減ってくる。この節目を迎えた今年、安倍内閣による戦時体制への傾斜が不安視されるなか、残り少なくなった戦争被害体験者が、これまで思い出すさえ辛く、語ることを固く封印してきたそれぞれの悲惨な被害体験を語り出した。必ずしも戦争を否定しない向きが拡大しつつあるのではないかという抑えがたい危機感に駆られ、戦争のない平和国家建設の礎(いしずえ)ともすべく、語り部として語り残すことが生き残りし者の果たすべき役割と思い直し、黙しと封印を解くに至ったのであろう。
 B29による大空襲、特攻隊の無残、沖縄戦での悲劇、原爆投下、中国・満州で終戦を迎えた人々の惨禍・惨劇…。様々な資料ですでに同種の悲惨な内容を知り尽くしている国民にとっては、どれをとっても、とりわけ目新しい戦争悲劇ではない。が、これらが新たに登場した人達の証言によって改めて語られるとき、衝撃もまた新たになる。例えば、終戦時小学5年、ご父君が満州鉄道に勤めていた関係で満州・ハルピンの社宅に住んでいた俳優・タレントの宝田明氏。昨年後半からマスコミ各所で、勝ち誇った側(ソ連兵)の暴虐、満州からの悲惨な帰還の道程を語り出した。

 終戦、そしてハルピンは、潮のようになだれ込んできたソ連軍によって、たちまち目を覆うばかりの略奪、暴行、陵辱の街と化した。氏は同じ満鉄社宅に住む女性が髪の毛を掴まれ、崖下に引きずりこまれて陵辱される様を目撃した。ある夜、家族一同食卓を囲んでいるとき、ソ連兵が二人、突如家に押し入ってきた。冷たい銃口をまだ幼い氏のこめかみにも突きつけるなどして脅し、なにがし家財を略奪した。その後、彼らは家族の前から母親を別室に連れ去り、時経て家族の前に母を連れ戻したが、その間、母親の身には何事が起きていたのか-。家族の誰も母に問うことはなく、母親もまたその後一切語ることとてなかった。もちろん、訊くこと、話せることでは決してない。宝田氏は、その後もハルピン市内で荒れ狂う占領軍兵士たちに幾度も遭遇したが、行方が分からなくなった兄を探しに行く途中、自らもソ連兵から腹部を銃撃され、麻酔薬も手術器具もない中で、元軍医の必死の手術でようやく命が救われるという体験をしている。やがて一家は、苦難のハルピンから日本行きの船が出る港まで、社宅居住者一団となっての、二カ月半にもわたる帰還行路につくが、それは、餓死者が相次ぎ、やせ細って母乳が出なくなった母親たちが子どもを求める現地の人たちに請われて、赤児を生かし、また自分たちも生き延びるために、食べ物との「物々交換」で泣く泣く我が子を手放す等、まさに敗戦民族の悲惨な逃避行であった。
 幸か不幸か、私には、戦争は二度と起こしてはならぬ、と語り伝えることに資するほどの直接的な被害体験がない。体験と言えば、東京大空襲があった1945年3月10日の少し前、警戒警報が鳴って学校から家まで走り帰る途中、大通りで米軍戦闘機に機銃掃射されて危うく命を奪われかけたこと、そして、東京大空襲の夜、当時居住していた、時折行き先を間違えた焼夷弾がわずかに降ってくる程度の安全地帯(千葉県市川市真間)から、川(江戸川)ひとつ離れた彼岸の地が煌煌と夜空を染めて燃え上がる様を呆然と見上げながら、‘米英憎し’と、いわば代理的な被害体験を持ったことぐらいしかない。これらに因んで、一昨年、反戦を唱える一文「宰相たるもの、真の“美学”を持とう―安倍総理の靖国参拝に因んで―」を草したが、この程度の「戦争体験」では、さてもおこがましくて、反戦を声高に唱える資格などはない。これに比べて、全く同じように直接の被害体験こそ無いが、父や長兄、次兄、三兄たちには、痛切な代理体験がある。父たちは当時、みな東京都心部へ通勤、通学していたが、大空襲の後、川を渡り線路を伝い、被災者がさまよい歩く焦土の最中(さなか)を往復する中で、そのあまりの惨状・惨禍をそのまま同胞として追体験し、己たちのものとした。即ち、尋常ならざる空爆被災者たちと同じ世界に我と我が身を置いた。被災の状況を語るとき、父たちが一様に、拳を振るわせ、にじみ出る涙をその拳でぬぐっていた様からも、それが分かる。実は、戦争被害者感情と同一化する私の反戦感情の源は、ここにこそあるのであった。後に俳人となった三兄は、当時瞼に焼き付けられた情景を「鎮魂」と題して次のように詠っている。
     死者またも浮く慟哭の黒き川   宗内数雄(『隠りく』前田書店 1998年)

「慟哭」はしかし、大戦で敗者となった日本国民だけに与えられた特権ではない。大戦の終了とともに日本の侵略行為から解放された国々、とりわけ長期にわたる日本軍民の暴虐行為に苦しめられていた中韓両国民にとっても、全く同様である。そして慟哭は、一方(日本)では反戦と平和への思いの源となり、他方(中国)では恨み・怨念・復讐心の源となった。われわれが慟哭を源として平和を願うなら、相反する慟哭がいかにしてもたらされたかをもしっかりと認識し、その謝罪の心を土台に「反戦」を唱うものでなければならない。
 とは言え、被害者としての「われわれ」を認識することはできても、「加害者」としての「われわれ」を認容することは難しい。ここしばらく、テレビ上では連日、戦争を悔悟・反省する番組や話題が引きも切らず登場するが、そのなかで、あるコメンテーターが「日本は負けるべくして負けた。アメリカと違って戦争資源のない日本は絶対に戦争をしていけない国だった」と発言するのを聴いて、慄然とした。そこには倫理的な視点からの考察や反省はかけらもなく、裏を返せば、万一資源が豊富で‘勝てる戦ならばやってもよかった’という本音が覗いて見える。そしてさらに驚くべきは、他の数名のコメンテーターもみな一様にうなずいて彼女に同意を示したこと。いわば日本の知性を代表する面々が集って議論するテレビワイドショー、この日本に、真の反戦思想が行き渡るのは、容易なことではない。
 そこで、待たれるのが、日本の軍国・帝国主義の暴虐を身をもって行い、心からなる悔悟・反省とともにその内容を偽りなく伝える語り部の出現である。勝ち驕るとき、人はどれほど残虐になるか。日本民族もその例外ではけっして無い。しかし、無念なことに、その有資格者とも言うべき人たちは、その多くがBC級戦犯として処刑され、早くに世を去っている。またたとえその残虐なる真実を身をもって知る人が、万一生き残っているとしても、加害者の立場からそれを語ることは並大抵のことではない。それ故にか、これまでにいくつか細切れに語り残されることはあっても、切実な迫力をもって語られる被害体験に匹敵するようなリアルな加害体験は未だ語り伝えられてはいない。幸いにも、と言ってよいのか、この私は、勝ち驕る日本軍の非道を日中戦争に軍属(通訳)として参加した父から、以下に述べる切実な体験を通して伝えられている。

 それは、終戦を告げる昭和天皇の玉音放送があって間もなく、炎暑真っ盛りの中のことだった。食糧難極まって、父と二人、陸軍練兵場の裏門から入り込み、フェンス沿いに生い茂る雑草の中からオオバコなど食用草を摘んでいた。兵舎用三階建ての建物は五、六十メートルは離れていた。と、突然、「貴様ら、そこで何してる!」と大音声の怒鳴り声が飛んできた。振り向くと、二階の窓から軍服の兵士が身を乗り出してこちらを睨まえ、指さしている。「肩をならべて兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです…」(「兵隊さんよ ありがとう」作詞 橋本善三郎、作曲 佐々木すぐる)と歌って兵隊さんは親しいものとばかり思い込んでいた。しかし、父の顔は一瞬でこわばり、青ざめ、「行くぞ!」と言うや私の手を引き、一目散に門まで走った。門を抜けても、まだ走りに走り、ようやく走り止めたのは、練兵所の窓から到底見えないところまで来た時だった。息切れて今にも胸が破裂しそうで、父の手に縋りついたまま、私はそこにへたり込んだ。
 悪事を働いたわけでもない。にも拘わらず、何故逃げ出したのか。父はその後、それについて一言も言い訳せず、私もまた、その時の尋常ならざる父の有様に恐れ戦き、何も問うことをしなかった。その謎が解けたのは、爾後30年も経って父があの世に旅立つ前の年、日本軍の残虐行為を取り上げて戦争を反省する、あるテレビ局の終戦記念番組を親子そろって見ている時だった。父は日本が中国を植民地化していた時代に国策で上海に興された「東亜同文書院」を卒業し、帰国後NHK国際局にも関係する中国語学者だった。1936年12月、日中戦争勃発(1937年7月)を前に招集され、一年後復員、翌年に「華語要訣」(三省堂, 1938年)を出している。従軍時に捕虜や住民の取り調べ時の通訳を仕事にしていた父に、私は恐る恐る、日本軍の残虐行為の有無を訊ねて見た。しばらく無言だったが、やがて父は、夢から覚めたように、ぽつりと洩らした。「容赦なく、首が切られた…。簡単な取り調べで…」。
 「どこで?」
 「その場で」
 初めて聞かされた従軍時の様相だった。事も無げなその残虐はあまりに恐ろしく、また罪深く、同胞(はらから)として到底口に出せるものではなかったのだろう。長年の沈黙を破った後、僅かでも贖罪に繋がったのだろうか、日頃渋面の父の顔から、憑物が落ちたような、胸のつかえを吐き出したような、ほっと安堵の色が見えたが、私は瞬時に、30年前のあの出来事を思い出していた。あの時父は、心底染みついていた軍人たちへの不信と恐怖が蘇り、万一を怖れて咄嗟の逃走劇に及んだのではなかったか。父の心の奥底深く消えやらぬ恐怖と罪障感を残した旧日本軍残虐行為を感得し、思い知らされた時の間だった。

 古今東西の歴史が物語っている。ひとたび生死を賭けた戦(いくさ)が起これば、人は野生に戻って鬼畜と化する。そこでは、民主主義、平和主義、人間愛、友好……等々、人間を人間たらしめる近代の「人間性」はすべて虚構の、美名・スローガン・むなしごととなる。しかも、近未来の戦争は、最終の勝利を得るために「戦争抑止力」と称する核兵器を不可避的に使用するところとなり、それは地球上の生きとし生けるもの、否、海・山・川・大地・石ころ、地球上のあらゆるものに、きっと再生不能の惨禍をもたらす。世界の平和を祈願するバチカンのフランシスコ教皇は「戦争は常に人類にとって敗北」と世に訴えたが、今や戦争は人類にとって究極の敗北を意味している。
  隣国を侵して残酷な加害者となり、また、原子爆弾の被爆というこれ以上にない過酷な被害者となった日本民族。それ故にこそ、平和を訴え、戦争に反対する最高の資格を有する。このプライドを持って、とこしえに平和と反戦を訴えていくことが、われわれに与えられた地球的な使命だと言えないだろうか。

     鎮魂は終はらず候(そうろう)終戦忌   宗内数雄(1995年)

                           
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新生銀行、お前もか。― 〈人か、組織か。拝啓、新生銀行殿〉―

  泣く子と地頭には勝てぬ?

 新生銀行こそは、サービスのよい好ましい銀行だと思っていた。預金・出金は他の金融機関のATMからでも無料で行うことができるし、なにがしかの預金残高があれば、何回か無料で各所にネット送金ができる。ほぼ10年前、たまたま迷い込んだ八王子支店の店先で応対してくれた愛くるしいK嬢の心地よさに惹かれ、ついついグロソブなる投資信託まで購入したのが、取引の始まり。その後、ネット送金、出先での必要金銭の引き出しなど、便利に利用し続けてきた。それがこの度、あっと驚く対応があり、恐れ入った。その内容は、あきれ果てて先般このブログ欄で取り上げたあのみずほ銀行と全く同じ、いやいやそれを遙かに凌ぎ、人(庶民)を人とも思わぬ金融機関をまさに象徴し、庶民が頼れる銀行があるなどと、いっときでも幻想に陥っていた己の愚かさを痛切に知らしめてくれるものだった。さては、無料出金、無料送金などのサービスは、貧しく愚鈍な人間をだまし引きこむ単なる手段に過ぎなかったのか―。
  ことは単純明快である。先のトラブルの後、みずほ銀行との取引を中止して他の金融機関に現金・証券類を移し替えたことをきっかけに、(大した額ではないが)いろいろ分散していた金融資産の預け先機関を整理することにした。そこで、預金は馴染みの郵便局(ゆうちょ銀行)と新生銀行、株式・投資信託はSBI証券へとそれぞれ移管して預け先を簡略化することにし、新生銀行については、まずは預託中の投資信託(グロソブ)をSBI証券会社へ移管しようとしたのであったが……。
  いかなる根拠に基づくのか、新生銀行(八王子支店)では、投資信託については、移管は行っていない、即ちできないとのことである。これは驚き、これではまるで、転校希望の生徒に対して転校は許さない、嫌なら退学してから転学せよと言うに等しく、大変な権利侵害問題である。そこで取引約款を当たると、「当行は、お客様からのお申し出があり、当行が承諾した場合には、他の口座管理機関へ振り替えを行います。ただし、当該管理機関において、お客様から振り替えの申し出があった銘柄の取扱いをしていない場合、当行は振替えの申し出を受け付けないことがあります。」(投資信託総合取引約款・第3章、29の1)となっている。これなら、他の証券・金融機関と内容的にほとんど異なるところはない。SBI証券はグロソブを扱っており、それを移管できないとは筋が通らぬ。そこで、「移管できない理由は?」と問えば、これまた何と、「当行は内部規約により、これまで一度も証券類の移管は行ったことがない」と突き放してくる。あとは、店にまで直接訪れても、お客様相談センターなる窓口に問い合わせても一向に変わることなく、やがて、「約款」に従って移管はできないという訳の分からぬ内容の"文書回答"までやって来た。

 さてさて、泣く子と地頭には勝てぬ、という故事ことわざがあるが、ここに至って、まさにまさしく、そう思った。
 泣いて喚く子は自分の理不尽は露ほど思わず、また強(こわ)面(もて)の地頭は理不尽は百も承知の上だから、どちらも己(おのれ)をどこまでも押し通す。弱い大人や力なき庶民は、理の通じない相手にはいかに道理を尽くしても所詮勝ち目がないから、堪えにこらえ、ハイハイ分かりましたと引き下がる。これが即ち「無理が通れば、道理が引っ込む」、古今東西まかり通る「不合理なる道理」のメカニズムである。この泣く子と地頭を現代風に翻訳するなら、例えば、生徒に対する体罰教師、選手に対する暴力支配のスポーツ関係指導者、被疑者に対する警察官、被融資者に対する銀行マンといった、ある種の関係性の中でなにがし優位に立つ者をいう。
  しかし、それでよい訳(わけ)はないだろう。泣く子と地頭は増長してますます悪徳を重ね、小役人的な小権力主義者となり、いじめ・意地悪文化を根っこで支えて、たくさんの被害者を連綿とつくりだす。学校、企業、その他どこもかしこも、いじめ・パワハラ等による重い精神障害や自殺に追い込まれる被害者が後を絶たない時代である。これを無縁の事象とけっして思ってはなるまい。泣く子と地頭を野放しにして、こうした風潮・文化を根っこで支える我々〝弱き〟人種たちにも大きな責任がある。万一そういう輩に出会ったら、もちろん己のため、また世の中のためにも、きっと退治するのが務めと心得るべきである。

 一昨年、みずほ銀行とのトラブルがあったばかりで、もう銀行とはもろもろ余計な関係を持ちたくないと思い、取引金融機関を整理しようとする最中での降って湧いた、同種出来事である。みずほ銀行とのやりとりはいろいろあったが(「人か、組織か。―〈拝啓、みずほ銀行殿(6)〉『琅』26号」)、私をして最も怒らせたものは、今般と同じ、購入した投資信託の他社への移管拒否問題、即ち人権侵害問題であった。当方の移管申し出に対し、初め規約上できないと拒否し、次いで、売却以外に手は切れないと強硬だったが、結局、規約上できることが分かった、と担当者が謝罪してきて解決したものである。当然と言えば当然、証券類は所有者本人(名義人)のもの、それをどこに移すかは所有者の自由であり、それを留め立てする権利は他の誰にもあろうはずがない。然るに今般、またしても全く同様の出来事が新生銀行との間で生じた。しかも、先般(みずほ銀行)とは異なり、此度はまさに応対者個人の問題ではなく、びくとも動かぬ銀行組織そのものとして立ちはだかってきた。これを〝地頭〟と呼ばずして何と呼ぼうか。
 この問題に関して、三つの機関に連絡し、また相談した。一つ目は、、ある意味では法的な機関でもあり、国民が各所金融機関で購入した株式等の証券類を組織的に一括管理する「証券保管振替機構」(通称、ほふり)。しかし、移管拒否問題については〝遺憾ながら関与する権限・機能が無い〟として、株式や投資信託などの金融商品取引に関するトラブルを公正・中立な立場で解決を図るとする「証券・金融商品あっせん相談センター」を教示するに留まった。
 二つ目がこの「証券・金融商品あっせん相談センター」。電話で斡旋を申し込んだところ、極めて共感的で、即座に新生銀行本部に対して電話で斡旋行為に及んでくれた。が、「銀行側が約款に従い移管はできないの一点張りで手に負えない」とやむなく匙を投げた。そこで、三つ目に選んだのが、金融機関の監督機関たる「金融庁」である。それは、かりそめに電話したさる簡易裁判所の電話相談室の担当事務官から示唆されたことによるのだが、インターネットで調べてみると―、なるほど、金融庁には、心強くも、「金融行政・金融サービスに関する一般的なご質問・ご相談・ご意見を金融サービス利用者相談室で受け付けています。頂いたご質問・ご相談については、相談員がお電話にてお答えします。また、頂いたご意見については、金融庁内で共有し、今後の金融行政に活用させていただきます」と唱え、〝皆様の「声」をお寄せください!〟と訴える「金融サービス利用者相談室」があった。
 これだ、と思わず直感した。40年ほど前の、ちょうどバブル経済走りの頃の出来事が咄嗟に脳裏を横切った。3年間毎月積立預金をすれば、その3倍を限度に住宅資金を貸し付けるという労働金庫の積立預金を終えた時のこと、何という理不尽、いざ住宅ローンの貸し出しを申請すると、3年間積んだ預金はローン返済終了時まで拘束預金として預かる、と労金側が言い出したのである。これでは資金不足で住宅など全く購入できない。思案の末に赴いたのが、労金の監督官庁たる労働省(現・厚生労働省)―、そこでの対応は、実に見事だった。担当官は、私の目の前で、預金先の労金新橋支店に電話を掛け、問い始めた。その折のことを、私は拙著のなかに留めている。役人たる者、国民のためにすべからくかくあるべし、ここに再録してみよう。

「積立住宅ローンというのがありますね」
「はい」
「三年間の積立期間終了後、それ(積立金)を拘束預金にするということにはなっていませんね」
「はい」
「お可笑しいですね。今、私のところに、積立預金をそのまま拘束預金にしなければ住宅ローンはできないと言われたという人が見えているのですが…」
「??!」
 翌日、支店長と副支店長が大きな菓子折を持って、飛んで我が家まで謝りにきた。
       (『二言、三言、世迷い言』「官こそ恃み」二〇一一年)

 しかしながら、これに比べて此度の金融庁の対応は、全く想像だにできないものだった。細かいやり取りは置いて、相談員が述べた結論のみを上げると、とどのつまり、「民事不介入で、当否についても言及できない」とのこと。そこで上記の事例を聞かせて監督官庁の役割を問えば、「労働省の行為は労金に対する越権行為」であり、「金融庁は金融機関への干渉は一切しない」、と、権利侵害を訴える当事者からすれば、いわばけんもほろろの対応である。
 調停斡旋の機関で駄目、監督官庁でも駄目とくれば、もはや民事的に解決する手がなくなり、あとは司法の手に当否の判断を委ねる以外に道はない。ただその前に、金融庁が私の訴えをどのように把え、それを伝え聞いた新生銀行が金融庁にいかなる回答をしたか、その正確なところを確認しておく必要はあるだろう。
表2が、これを確認するために行った、金融庁への「保有個人情報開示請求書」。各文書の写しの送付を求めている。そして表3がこれに対する金融庁の回答で、全面開示はせず部分開示となっている。しかし、文書の写しはかけらもない。また、「金融庁に対する新生銀行からの回答書は保有せず」、となっており、無責任極まるものであった。
 これは真剣に物事の解決を思案する申立人(換言すれば国民)を愚弄するに等しい。それ故、この回答書に対して、新生銀行からの回答を保有していないことの理由開示と共に、全部開示を求めて、15年7月9日づけで異議申立を行った。が、しかし、2ヶ月を経過した今日まで、未だ回答はない。

 ちょっぴり目を転じて、北朝鮮、ロシアという近隣二つの国に触れてみよう。
 まず北朝鮮という国。世界中が平和を希求し、戦争を回避せんとする風潮・文化が進む中、言わずと知れた日本人拉致問題で日本国中を悲憤慷慨させ、揚げ句に、拉致被害者を人質同然に経済援助を要求し、時に核弾頭運搬手段ともなり得るミサイル発射実験を行って、日本国家・国民を脅迫する。
 次にロシアという国。第二次大戦終了時、日ソ中立条約を破って日本の敗戦を決定的にし、その勢いで、南樺太・千島列島、さらには北海道と地続きの感さえある択捉島など北方4島まで占領して自国領として今に至る。北方4島に関しては一九五八年の日ソ共同宣言で、「平和条約締結後、日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す」とされているが、現在ではその実効支配も極度に進み、もはや返還する兆しもない。
 日本によって長く属国支配された朝鮮民族、日露戦争における屈辱的な敗戦を味わったロシア民族、これらが両国家・国民に与えた屈辱と怨念は血肉となって受け継がれてきたに違いない。が、しかし、それをどれほど斟酌しても、今日的平和観をもってしては、日本国および日本国民にとって、まさにこの両国、〝泣く子と地頭〟ではあるまいか。これに尖閣諸島問題を絡めて中国のさらなる軍事国化を考慮すると、憲法違反の疑義や批判が様々あるなか、この度の安保法案改正を無理押ししてでも成立させた、一国を預かる身としての安倍総理の思いは痛いほど分かる。が……、おっと、脱線。
  世界に向かって平和思想の先導者たらんとするわれわれ日本国家・国民。少なくとも国の中では、いじめ・意地悪の元凶となる〝泣く子と地頭〟にはならぬよう、そしてならさぬよう、きっと振る舞いたいものである。(9月9日:加筆)

 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手・コメントを下されば、有難く存じます。

* 本稿の続編が「人か、組織か(2)―〈拝啓、金融庁殿&総務省「情報公開・個人情報保護審査会」殿〉」、そして「降りかかる火の粉は払わねばならぬ―泣く子と地頭は諸悪の根源―(人か、組織か⑶ 拝啓、新生銀行殿)」です。是非にもお読み頂き、また、コメント等頂戴できれば、まことに有難く存じます。

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プロフィール

宗内 敦(カラーピラミッド)

Author:宗内 敦(カラーピラミッド)
教育・文芸同人誌『琅』発行人
「書肆彩光」代表者
日本教育心理学会会員
日本ペンクラブ会員
”下記の著、拍手・コメントを頂戴した方に贈呈いたしたく。ご希望あれば、ご連絡下さい。”
 ☆『二言、三言、世迷い言』(書肆彩光 1012)
 

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