降りかかる火の粉は払わねばならぬ―泣く子と地頭は諸悪の根源―(人か、組織か⑶ 拝啓、新生銀行殿)

 まさか、ひとかどの銀行たる新生銀行が、顧客に対してかくも常軌を逸した対応をしてくるとは…!
新生銀行によって引き起こされたトラブルについては、その問題を取り上げる意義に触れながらすでに2回(①泣く子と地頭には勝てぬ? 「新生銀行、お前もか」、②拝啓、金融庁殿&総務省「情報公開・個人情報保護審査会」殿)、本ブログ欄で取り上げてきたが、この度、遂にやむにやまれず東京地裁に提訴するに至った。経緯はこうである。

 10年程前、新生銀行で投資信託証券(グロソブ)を購入した。それを一昨年3月、他の金融機関(SBI証券)に移管(振替)しようとしたところ、新生銀行が拒絶した。その理由を求めると、「弊社は約款に従い、投資信託証券の移管及び移入はかつて一度も行ったことがない」として、契約当時にはまだ存在していなかった約款を添えて回答してきた(27.3.24)。そこで早速、該当の項目「第3章29.他の口座管理機関への振替」を瞥見して驚いた。即ち、
  (1) 当行は、お客様からお申し出があり、当行が承諾した場合には、他の口座管理機関へ振替を行います。ただし、当該他の口座管理機関において、お客さまから振替の申し出があった銘柄の取り扱いをしていない等の理由により、振替を受け付けない場合、当行は振替の申し出を受け付けないことがあります。また、当行で受益権を受け入れるときは、渡し方の依頼人に対し振替に必要な事項(当行名および取引店名、口座番号、口座名義等)をご連絡下さい。上記連絡事項に誤りがあった場合は、正しく手続きが行われないことがあります。 (下線、筆者)
  (2)前項において、他の口座管理機関へ振替を行う場合には、あらかじめ当行所定の振替依頼書によりお申し込みください。
 となっているが、この約款規約文書のどこに移管・移入を行わないとする規定があると言うのだろう。掉尾の「(2)前項において、他の口座管理機関へ振替を行う場合には、あらかじめ当行所定の振替依頼書によりお申し込みください」の文言は、一体何のためにあるのか。振替(移管)を行うためにあるのではないのか。いや待て、それより以前に、筆者が下線を付した「当行が承諾した場合には」の文言は、一体何を意味するのか。よもや振替を承諾するもしないも、すべては当行の思うがままという無茶苦茶なる文意なのか…。もしそうだとしたら、否、そうだとしなければ、事ほど左様に振替拒否を当然の如くに為してくるはずもない。
 全く不法な、否否、全く無法な新生銀行の有り様である。筆者はたまらず、金融商品トラブルの解決専門機関たる「証券・金融商品あっせん相談センター」に斡旋を依頼したが(電話:0120-64-5005)、約款に従ったまでという銀行側の態度が固く解決は出来なかったとの回答。よってやむなく監督官庁の金融庁「金融サービス利用者相談室」に連絡して善処方依頼したが(27.3.27)、それが何ということ、当庁は「民事不介入で、当否についても言及できない」、「金融機関への干渉は一切しない」、と、権利侵害を訴える当事者からすれば、全く意に反する、いわばけんもほろろの対応である。しかもその後金融庁は、本件を巡る金融庁-新生銀行間の往来文書の情報公開を求める筆者をして「金融サービス利用者相談制度を濫用するなど、監督行政の適正な遂行に支障を及ぼすおそれ」がある人物だと貶めるまでして開示を拒否し、新生銀行を擁護した。さらに、こうした問題を裁定する国家的第3者機関(?)総務省「情報公開・個人情報保護審査会」までがこの金融庁の情報開示拒否を妥当だとして、さらに一層擁護した。
 ここに至り、本トラブルの解決は公正・正義をもって裁く裁判所に委ねる以外に途はなくなった。そこで筆者は、昨年1年間、某弁護士クリニックと関係を持って、関連する法規を幾ばくか学んだ。証券等の振替に関しては、「社債、株式等の振替に関する法律」(社振法)が、いわば憲法として、法的用語で言えば、故無くして振替を拒否してはならない「強行法規」として存在していることを知った。
 社振法はその冒頭第1条で高らかにその目的を掲げている。曰く、「この法律は、社債、株式その他の有価証券に表示されるべき権利の振替に関し、振替を行う振替機関及び口座管理機関、振替に関する手続並びに権利を有する者の保護を図るための加入者保護信託その他の必要な事項を定めることにより、社債、株式その他の有価証券に表示されるべき権利の流通の円滑化を図ることを目的とする。」
 各金融機関は、この目的と精神に基づいてその振替規定を作成し、約款に掲げている。いくつか集めて確かめてみれば、どれも皆、社債、株式その他の有価証券に表示されるべき権利の流通の円滑化を図ることを目的として、理由無く振替拒否などなし得ようもない真っ当な規定である。その中にあってひとり突起して違法な規定が、何ら条件を示さないまま「当行が承諾した場合には」なる文言をもって随意に振替の許諾が出来るとする新生銀行のそれである。クリニックの指導弁護士は、「社債、株式等の振替に関する法律70条に基づき、SBI証券への振替を申請する」として「振替手続申請書」を出せば、新生銀行側が約款の違法性に気づいてたちまち振替に応じるとの見通しを示し、提訴するか否かはその後決定しても遅くはない、と楽観的な見通しを述べた。筆者はそれに従った。が、その見通しは甘かった。
 平成29年1月12日、新生銀行に対し、上記内容の「振替手続申請書」を書留便で提出した。しかし、10日待っても、回答が来る気配は全くない。もはや他に途はなく、平成29年1月24日、東京地裁に赴き、下記の如き判決を求める内容の訴状を提出した(平成29年(ワ)第2148号 振替請求事件)。
(1)被告は社債、株式等の振替に関する法律70条に基づき、原告所有の本件受益権について、訴外株式会社SBI証券に存在する原告名義の振替口座への振替を行うべく、手続きを開始せよ。
(2)訴訟費用は被告の負担とする。
 これに対し、被告新生銀行は公判予定日(29.3.15)1週間前に下記の如き内容の答弁書を突然提出して応訴してきた(被告代理人弁護士・露木琢磨、小林聡)。その要旨は、
(1)「当初、被告は、原告による本件受益権の振替の申請を承諾しないこととしたが、その後、これを承諾することとし、原告が希望する振替先である訴外SBI証券に対し、振替手続を行う旨を連絡した」ところ、SBI証券から原告所有の証券内容によって内部規定に抵触するため「原告の振替申請を受け付けることはできない旨の回答があった」。よって、
(2)被告が「社振法70条による措置を執る必要は無い」。
(3)訴訟費用は原告の負担とする
 呆(あつ)気(け)にとられる内容である。約款に従って移管(振替)も移入も行ったことがないと突っぱね、最後通達でもあった1月12日付けの振替手続申請にも返事ひとつ寄越さなかったものが、提訴されては約款の違法性を認めざるを得なくなったとでも言うのか、「当初、…振替の申請を承諾しないこととしたが、その後、これを承諾することとし…」とは、それこそ下衆(げす)なる言葉を使えば〝一体どの面下げて言えるのか〟。しかもそれだけではない。当方に何らの連絡もしないままSBI証券に連絡を取って、瑕疵があるため振替が出来なかった、故に、「社振法70条による措置を執る必要は無い」、「訴訟費用は原告の負担とする」など主張し、一向に筋が通らない。〝これまでは間違っていた、すぐにも振替行為に及ぶから、すべて水に流して欲しい〟と言うなら、許容することも出来る(そのつもりでもあった)。しかしそれがまた、行ったとする振替行為が、実際に行ったかの如くいかにもらしく装った口実であったから許せない。仮定の話ではあるが、今更の行為とは言え、新生銀行が真実原告のために振替を行おうとし、そして万一SBI証券から振替に支障を来す瑕疵が指摘されたのなら、その折、その事実を何故原告に連絡しなかったのか。さすれば、振替を不可能にする障害の有無を確かめ、あるいは障害の除去を行い、振替はたちまち終了したはずである。
 新生銀行の答弁書に対し、数多の証拠資料を挙げて筆者は、その無法性と偽装性を明かした(第2回公判:準備書面)。しかしなお、相手方の姿勢は変わらない。代理人曰く、〝次回には、必ず原告の問題点を立証してみせる〟。

 何が何でも振替阻止を図ろうとする新生銀行、まさに泣く子と地頭の無法と無体。一体何のために? 元は筆者を老齢者と侮ってのことか。これは、高齢者を巧みに騙す振込詐欺よりさらに悪質である。そして、裁判に入ってもなお堂々と無法な言述を重ね、圧力を加えてくる。弱者と思えばどこまでも相手を不当な力で圧倒しようとする、こうした〝小権力(権威)主義〟は、まさに世に蔓延る諸悪の根源-無法な力に押し迫られたとき、受ける苦しみは個々人の個性、価値観、環境等、様々な違いによって多様、またそれへの反応も人様々である。闘う者、退避する者、心身を病んで苦しみあがき、非行・犯罪、精神疾患に陥る者…。なかには、いわゆる〝電通「過労死」問題〟や〝原発避難いじめ事件〟国際的には、自爆テロへの参加等々などにも見られるように、自死をもって解決を図る者さえ出る。此度、私に偶々降りかかった無法の火の粉は、世のため、人のためにも、如何に苦しく、また労力を費やそうとも、きっと打ち払って、世の中を浄化する一石としたい。もって、提訴した所以であった。
 世に言う公序良俗、そして良識や常識に基づく正義なる判決を待ち望んで、取り敢えずの筆を擱く。

* 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手を下されば、有難く存じます。
                                                                        
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死刑廃止は人類究極の平和理念―日弁連の「死刑制度の廃止を求める宣言」に因んで―

 
 何という醜態。民主主義を守る世界一の超大国・アメリカ合衆国の第45代大統領選は、二大候補のヒラリー・クリントン氏とドナルド・トランプ氏の、低劣極まる攻撃・非難合戦の末、劣勢を伝えられていたトランプ氏の勝利で幕を閉じた。
 愚考するに、優勢を伝えられていたクリントン氏が有名歌手などを招いて駄目押しをするために行った投票日直前のお祭り騒ぎ(演説会)が、いつかは高邁な政治理念を聴いてアメリカの未来に希望を持たんと期待していた心ある人々を落胆させ、また離反させ、逆に、本音の部分で密かに国民の共感を培っていたトランプ氏への支持を高める皮肉な結果を招いてしまった。
 昨年の大国イギリスのEU離脱、そして此度の超大国アメリカにおけるトランプ政権の出現。どちらも、ある意味平和の源泉たり得る国際グローバル化に反する偏狭なナショナリズムに基づいている。それは、第二次世界大戦を起こしたドイツ・ナチズムの再来をも、ふと危惧させる。大国における、この相次ぐナショナリズムの台頭―。地球の未来はどうなるのか。蛇が出るか仏が出るか……。と、それはさておき。

 過日(10/7)、日本弁護士連合会〈日弁連〉が「人権擁護大会」を開いて「死刑制度の廃止を求める宣言」を採択した。思うにこれは、2007年以降、①国連総会が死刑存続国を対象に繰り返し死刑廃止を求める決議案を採択する背景の中で、死刑廃止国が着実に増加している、②死刑確定事件の再審無罪(免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件など、いわゆる四大死刑冤罪事件)が象徴するように、冤罪による死刑判決の存在が少なからずあるのではないか、といった内外の状況に鑑み、万一「冤罪で死刑が執行されれば取り返しがつかない」(日弁連声明)との危機感から導かれたものである。
 冤罪による死刑判決、そして死刑の執行。主権在民にあらざる過去の暗黒時代ならいざ知らず、現代諸国家・国民の大半が隈無く基本的人権と平和を求めている時代に、こうした事態が起これば、それはまさしく“取り返しのつかない”大事件、否、大犯罪である。こうした〝大犯罪〟を契機に死刑廃止国に転じた一つの例が、厳罰の国として知られていたイギリスであった。
  1949年11月30日、イギリス・ロンドン市内のとあるアパートの裏庭で、そのアパートに住む若い母親と幼い娘の二人が絞殺死体となって発見された。容疑者として、その母子の夫であり父である25歳のティモシー・ジョン・エヴァンスが逮捕され、翌年1月、公判に付されて死刑判決が下された。事件については、同じアパート内に住む男(ジョン・クリスティ)が「ティモシーが母と娘を殺すのを見た」といった証言をなし、ティモシーはジョン・クリスティこそが真犯人であると訴えていたが、ティモシーの主張は容れられず、3月9日に処刑された。それから3年後、他の殺人事件をきっかけに、証言者のジョン・クリスティが真犯人であったことが判明し、当該妻子殺害事件は国中を湧かす冤罪事件として大騒ぎになった。-そして、このエヴァンス事件を踏み台に、国内には止みがたく死刑廃止論が浮上し、1969年、イギリスは死刑廃止国の一員となった。

 「冤罪で死刑が執行されれば取り返しがつかない」。理の当然である。こうした理不尽な〝犯罪〟を防ぐために死刑制度を廃止せよ!。一見、筋が通っている。しかしながら、ちょっと待て。この冤罪死刑を避ける道(死刑廃止)は、他方、有罪死刑の道をも同時に絶つ事になり、いかなる残虐な殺人行為も、加害者の死をもって贖わせることを不可能にしてしまう。だとすれば、殺害された被害者およびその遺族の無念は一体どのように晴らされるのか。
 筆者はかつて、ご子息を無惨な暴力によって命を絶たれた「少年犯罪被害当事者の会」代表・武るり子氏に関わる報道に触発され、一文を草した(「被害者感情・犯罪者処遇」)。内容は、殺人事件の加害者裁判において最も尊重されるべきは、たとえ加害者が少年法で保護される未成年者や責任能力が云々される精神障害者であっても、被害者遺族の感情・意見であるとするものであった。日弁連の「死刑廃止宣言」を機にネット上を検索してみたところ、激情的な論調で知られるジャーナリストの長谷川豊氏による『「死刑反対」の人権派は「死刑」の根本的な意味を分かっていないんじゃないか?』に出会った。そこでは、とりわけ無念極まる被害者遺族の立場を代弁する形で、きりりと「死刑廃止」反対の論が進む。これに対して此度の日弁連の論理は、果たして太刀打ちできるものなのか―。
  凶悪な殺人事件において加害者に死をもって報いるというのは、いわば〝因果応報、仇討ち〟の理念である。それは古今東西、古(いにしえ)から今日まで、いかなる人にとってもその胸の中にある。「忠臣蔵」が持て囃される我が国では殊更であり、本邦で死刑廃止論が容易に根付かない心理・社会文化的な基盤ともなっている。1999年4月、山口県光市で当時18歳の少年が犯したいわゆる光市母子殺害事件は、2012年2月20日最高裁判所第一小法廷で死刑判決が確定した。が、そこに至るまでの過程で、死刑廃止論者とも推測可能な弁護士団が、死刑回避のために形振り(なりふり)構わぬ珍妙な弁護論を立てて死者(被害者)および遺族を限りなく愚弄しかつ侮辱し、故にこそ、遺族に対する同情と加害者の死刑判決を望む世間の声は極度に高まった。
 こうした背景の中で、「冤罪で死刑が執行されれば取り返しがつかない」として死刑制度廃止を唱える日弁連の有り様は、どこか司法界の至らなさを自ら代弁して言い訳するが如き、いかにも便宜的で安易なプラグマティズムのような印象を受ける。私だけの感覚だろうか。まずは、冤罪などけっして惹起しないよう、未熟・専横的な警察・司法制度を改めるべきであり、その行き着いた〝冤罪のない〟世界でもなお死刑廃止が唱えられるとするなら、それは真の死刑廃止論となり得る。だがその折には、被害者および被害者遺族の報復理念を斟酌する現行の死刑制度の妥当性を認めながら、なおかつそれを超えて死刑廃止を正義とする論理を立てなくてはならない。そのような道筋、一体どこにあるのであろう。
 結論的に言って、それは本来、あり得ようはずがない。例えば、死刑廃止を訴え続ける‘アムネスティ’は言う。たとえ殺人者であっても、「生きる権利は、誰もが有する基本的な人権です。人為的に生命を奪う権利は、何人にも、どのような理由によってもありえない。国家さえもそれを奪うことはできない。これが、生きる権利を保障する『人権思想』というものであり、アムネスティが抱いている理念です」(死刑廃止-なぜ、アムネスティは死刑に反対するのか?)。まさしく、正論であろう。これに対して、かけがえのない命を奪われた被害者側は、言わざるを得ない。「その基本的人権を根底から奪い取られた無念は、どのようにしたら晴らされるのか。せめても加害者に死が与えられる以外にそれはない」。人が情意の総体たるひとであるが故に抱く怨念、即ち情念の極み-、これを一体、誰が非難し得ようか。これもまた正論なのである。
 しかし、これに対してなお、‘アムネスティ’は言う。「米国では、9.11に触発された犯罪が多発しましたが、その被害者の一人であるバングラデシュ移民のレイス・ブイヤンさんは、自分を撃った犯人の減刑を求めました。〝私が信仰する宗教には、いつでも寛容は復讐に勝るという教えがあるのです〟と、彼は述べています。また、娘を殺害された米国の犯罪被害者の遺族マリエッタ・イェーガーさんは、“自分の娘の名において、もう一つの殺人が行われることを、娘が望んでいるとは思えない”とおっしゃっています。このように、死刑が解決につながると考えない被害者遺族も、多くおられるのです」。 
  一見、説得力を持つ論旨である。しかし、この冷(ひ)やかな言葉の投げかけほど、悲憤にのたうつ被害者遺族を逆なでし、傷つけ侮辱する言葉も無いだろう。ここで誤解を恐れずに極言すれば、もし私が光市母子殺害事件の如き事件の被害者遺族であり、もし誰ぞにこのような言葉を投げかけられたら、加害者のみならず、言葉を投げた相手をも許せず、その者の死さえも望むかもしれぬ。
                ―未完
(お詫び: 本稿は初め、昨年11月20日に未完のまま投稿しました。その未完の文章を完成させるべく行っていた編集作業中、投稿を終えた部分を誤って全文削除してしまったようです。同時に、有難くも頂戴していた拍手4件の記録と、貴重なコメントをお寄せ下さった方のそれも消えてしまいました。深くお詫び申し上げます。本稿は、至急完成させます。ご海容下さい。17/1/2)。

集団的自衛権問題―まずは解散・総選挙で「民意を問う」のが民主主義。秦恒平氏に同感―

 私と同年、太宰治賞作家で元東工大教授の秦恒平氏から、「賛同して下さる方、広くご転送下さい」の添え書きのもと、以下のメールが届いた。

 安倍「違憲」内閣は、国と国民の平和を危殆・破滅へ導く、安易で好戦姿勢の集団自衛権を、「閣議決定」一つで決めた。
 断乎、これを拒否する。
 かかる大事を、かくも独裁強行するならば、解散・総選挙で「民意を問え」と、私は声明する。
 同調の声の燃えんばかりに広がるのを期待する。
      平成二十六年七月一日       作家 秦 恒平

  安倍内閣が「違憲内閣」であるか否かは即断できないが、かなりの「危険内閣」であることは、論を俟たない。しかしまた、この問題(集団的自衛権)が、中国との一触即発の危険をはらむ尖閣諸島問題やTPPを巡る複雑怪奇な外交関係とも密接にふれあいながら、ある意味、「平和日本」の内閣として、手練れのごとく打ち出された苦渋・苦肉の策ではないかとの推測もされ、にわかには非難しがたい。とは言え、秦氏が叫ぶ後半の声明 “かかる大事を、かくも独裁強行するならば、解散・総選挙で「民意を問え」” には全く同感である。 過日発行した『琅26号』の後書きで、第3次世界大戦への不安を述べた。何か昨今、人と言わず、国と言わず、どこかで第3次世界大戦の引き金を引く悪魔が現れるのではないかとの懸念が消えやらない。よもやとは思うが、日本人が、日本国が、その先導者となることだけは許されない。尽くすべし、尽くすべし、民主・平和憲法とはいかなるものかの、国民議論を。
 秦氏に同調し、あえてこの一文、わがブログ欄に転載した次第である。
           平成26年7月1日       宗内 敦

東北大震災・緊急提言: 日赤よ,急げ。1世帯100万円の緊急見舞金を! 悪夢の中の被災者に,もたらせ,夢と希望と現実を。

 現実的な緊急支援こそ、喫緊の課題。日赤よ、「赤十字」の意味を今こそ問い直せ。未だに具体的な支援活動を起こしていないとは何事。さまざまな思惑で、後手後手に回って事を大きくしている東京電力の前轍を踏んではならない。家族を失い、肉親を失い、家も持ち物も一切合切なくしてしまうという、深刻きわまりない被害を受けた方々にとって、まずは先立つものがなければ、現実をスタートさせることなど、出来ようはずもない。今緊急にもっとも必要な支援は何か、日赤はそれを考え、理解しているのだろうか。未来へ向けての夢と希望は、まずは現実生活を一歩でも進めることを可能にする現実的な支援である。ある地方自治体の、住民に対するわずか5万円ほどの、併し精一杯の現金支給が、皆さんをどれほど力づけたか、テレビの画面で見るまでもない。私たちは、のろのろ運転を支援するために、走って、好んで、日赤に義援金を集中させたわけではないのだ
 世界も驚く、被災者の方々の、絶望状況の中での整然たる忍耐。これに甘えて、支援活動を遅らせるなど、義援活動を行っているたくさんの人々に対する裏切り行為でもある。忍耐にも限りある事を知り、もっとも多額な義援金を集めている日赤は、今何をすべきか、深刻に反省し、現実的かつ具体的な緊急の支援活動を、即刻に開始しなくてはならない。(未完にして未完)

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プロフィール

宗内 敦(カラーピラミッド)

Author:宗内 敦(カラーピラミッド)
教育・文芸同人誌『琅』発行人
「書肆彩光」代表者
日本教育心理学会会員
日本ペンクラブ会員
”下記の著、拍手・コメントを頂戴した方に贈呈いたしたく。ご希望あれば、ご連絡下さい。”
 ☆『二言、三言、世迷い言』(書肆彩光 1012)
 

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