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戦争は、人類にとって究極の敗北-戦後70年、私の所感-

  戦後70年ともなれば、深刻な戦争被害体験を持つ人の数がめっきり減ってくる。この節目を迎えた今年、安倍内閣による戦時体制への傾斜が不安視されるなか、残り少なくなった戦争被害体験者が、これまで思い出すさえ辛く、語ることを固く封印してきたそれぞれの悲惨な被害体験を語り出した。必ずしも戦争を否定しない向きが拡大しつつあるのではないかという抑えがたい危機感に駆られ、戦争のない平和国家建設の礎(いしずえ)ともすべく、語り部として語り残すことが生き残りし者の果たすべき役割と思い直し、黙しと封印を解くに至ったのであろう。
 B29による大空襲、特攻隊の無残、沖縄戦での悲劇、原爆投下、中国・満州で終戦を迎えた人々の惨禍・惨劇…。様々な資料ですでに同種の悲惨な内容を知り尽くしている国民にとっては、どれをとっても、とりわけ目新しい戦争悲劇ではない。が、これらが新たに登場した人達の証言によって改めて語られるとき、衝撃もまた新たになる。例えば、終戦時小学5年、ご父君が満州鉄道に勤めていた関係で満州・ハルピンの社宅に住んでいた俳優・タレントの宝田明氏。昨年後半からマスコミ各所で、勝ち誇った側(ソ連兵)の暴虐、満州からの悲惨な帰還の道程を語り出した。

 終戦、そしてハルピンは、潮のようになだれ込んできたソ連軍によって、たちまち目を覆うばかりの略奪、暴行、陵辱の街と化した。氏は同じ満鉄社宅に住む女性が髪の毛を掴まれ、崖下に引きずりこまれて陵辱される様を目撃した。ある夜、家族一同食卓を囲んでいるとき、ソ連兵が二人、突如家に押し入ってきた。冷たい銃口をまだ幼い氏のこめかみにも突きつけるなどして脅し、なにがし家財を略奪した。その後、彼らは家族の前から母親を別室に連れ去り、時経て家族の前に母を連れ戻したが、その間、母親の身には何事が起きていたのか-。家族の誰も母に問うことはなく、母親もまたその後一切語ることとてなかった。もちろん、訊くこと、話せることでは決してない。宝田氏は、その後もハルピン市内で荒れ狂う占領軍兵士たちに幾度も遭遇したが、行方が分からなくなった兄を探しに行く途中、自らもソ連兵から腹部を銃撃され、麻酔薬も手術器具もない中で、元軍医の必死の手術でようやく命が救われるという体験をしている。やがて一家は、苦難のハルピンから日本行きの船が出る港まで、社宅居住者一団となっての、二カ月半にもわたる帰還行路につくが、それは、餓死者が相次ぎ、やせ細って母乳が出なくなった母親たちが子どもを求める現地の人たちに請われて、赤児を生かし、また自分たちも生き延びるために、食べ物との「物々交換」で泣く泣く我が子を手放す等、まさに敗戦民族の悲惨な逃避行であった。
 幸か不幸か、私には、戦争は二度と起こしてはならぬ、と語り伝えることに資するほどの直接的な被害体験がない。体験と言えば、東京大空襲があった1945年3月10日の少し前、警戒警報が鳴って学校から家まで走り帰る途中、大通りで米軍戦闘機に機銃掃射されて危うく命を奪われかけたこと、そして、東京大空襲の夜、当時居住していた、時折行き先を間違えた焼夷弾がわずかに降ってくる程度の安全地帯(千葉県市川市真間)から、川(江戸川)ひとつ離れた彼岸の地が煌煌と夜空を染めて燃え上がる様を呆然と見上げながら、‘米英憎し’と、いわば代理的な被害体験を持ったことぐらいしかない。これらに因んで、一昨年、反戦を唱える一文「宰相たるもの、真の“美学”を持とう―安倍総理の靖国参拝に因んで―」を草したが、この程度の「戦争体験」では、さてもおこがましくて、反戦を声高に唱える資格などはない。これに比べて、全く同じように直接の被害体験こそ無いが、父や長兄、次兄、三兄たちには、痛切な代理体験がある。父たちは当時、みな東京都心部へ通勤、通学していたが、大空襲の後、川を渡り線路を伝い、被災者がさまよい歩く焦土の最中(さなか)を往復する中で、そのあまりの惨状・惨禍をそのまま同胞として追体験し、己たちのものとした。即ち、尋常ならざる空爆被災者たちと同じ世界に我と我が身を置いた。被災の状況を語るとき、父たちが一様に、拳を振るわせ、にじみ出る涙をその拳でぬぐっていた様からも、それが分かる。実は、戦争被害者感情と同一化する私の反戦感情の源は、ここにこそあるのであった。後に俳人となった三兄は、当時瞼に焼き付けられた情景を「鎮魂」と題して次のように詠っている。
     死者またも浮く慟哭の黒き川   宗内数雄(『隠りく』前田書店 1998年)

「慟哭」はしかし、大戦で敗者となった日本国民だけに与えられた特権ではない。大戦の終了とともに日本の侵略行為から解放された国々、とりわけ長期にわたる日本軍民の暴虐行為に苦しめられていた中韓両国民にとっても、全く同様である。そして慟哭は、一方(日本)では反戦と平和への思いの源となり、他方(中国)では恨み・怨念・復讐心の源となった。われわれが慟哭を源として平和を願うなら、相反する慟哭がいかにしてもたらされたかをもしっかりと認識し、その謝罪の心を土台に「反戦」を唱うものでなければならない。
 とは言え、被害者としての「われわれ」を認識することはできても、「加害者」としての「われわれ」を認容することは難しい。ここしばらく、テレビ上では連日、戦争を悔悟・反省する番組や話題が引きも切らず登場するが、そのなかで、あるコメンテーターが「日本は負けるべくして負けた。アメリカと違って戦争資源のない日本は絶対に戦争をしていけない国だった」と発言するのを聴いて、慄然とした。そこには倫理的な視点からの考察や反省はかけらもなく、裏を返せば、万一資源が豊富で‘勝てる戦ならばやってもよかった’という本音が覗いて見える。そしてさらに驚くべきは、他の数名のコメンテーターもみな一様にうなずいて彼女に同意を示したこと。いわば日本の知性を代表する面々が集って議論するテレビワイドショー、この日本に、真の反戦思想が行き渡るのは、容易なことではない。
 そこで、待たれるのが、日本の軍国・帝国主義の暴虐を身をもって行い、心からなる悔悟・反省とともにその内容を偽りなく伝える語り部の出現である。勝ち驕るとき、人はどれほど残虐になるか。日本民族もその例外ではけっして無い。しかし、無念なことに、その有資格者とも言うべき人たちは、その多くがBC級戦犯として処刑され、早くに世を去っている。またたとえその残虐なる真実を身をもって知る人が、万一生き残っているとしても、加害者の立場からそれを語ることは並大抵のことではない。それ故にか、これまでにいくつか細切れに語り残されることはあっても、切実な迫力をもって語られる被害体験に匹敵するようなリアルな加害体験は未だ語り伝えられてはいない。幸いにも、と言ってよいのか、この私は、勝ち驕る日本軍の非道を日中戦争に軍属(通訳)として参加した父から、以下に述べる切実な体験を通して伝えられている。

 それは、終戦を告げる昭和天皇の玉音放送があって間もなく、炎暑真っ盛りの中のことだった。食糧難極まって、父と二人、陸軍練兵場の裏門から入り込み、フェンス沿いに生い茂る雑草の中からオオバコなど食用草を摘んでいた。兵舎用三階建ての建物は五、六十メートルは離れていた。と、突然、「貴様ら、そこで何してる!」と大音声の怒鳴り声が飛んできた。振り向くと、二階の窓から軍服の兵士が身を乗り出してこちらを睨まえ、指さしている。「肩をならべて兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです…」(「兵隊さんよ ありがとう」作詞 橋本善三郎、作曲 佐々木すぐる)と歌って兵隊さんは親しいものとばかり思い込んでいた。しかし、父の顔は一瞬でこわばり、青ざめ、「行くぞ!」と言うや私の手を引き、一目散に門まで走った。門を抜けても、まだ走りに走り、ようやく走り止めたのは、練兵所の窓から到底見えないところまで来た時だった。息切れて今にも胸が破裂しそうで、父の手に縋りついたまま、私はそこにへたり込んだ。
 悪事を働いたわけでもない。にも拘わらず、何故逃げ出したのか。父はその後、それについて一言も言い訳せず、私もまた、その時の尋常ならざる父の有様に恐れ戦き、何も問うことをしなかった。その謎が解けたのは、爾後30年も経って父があの世に旅立つ前の年、日本軍の残虐行為を取り上げて戦争を反省する、あるテレビ局の終戦記念番組を親子そろって見ている時だった。父は日本が中国を植民地化していた時代に国策で上海に興された「東亜同文書院」を卒業し、帰国後NHK国際局にも関係する中国語学者だった。1936年12月、日中戦争勃発(1937年7月)を前に招集され、一年後復員、翌年に「華語要訣」(三省堂, 1938年)を出している。従軍時に捕虜や住民の取り調べ時の通訳を仕事にしていた父に、私は恐る恐る、日本軍の残虐行為の有無を訊ねて見た。しばらく無言だったが、やがて父は、夢から覚めたように、ぽつりと洩らした。「容赦なく、首が切られた…。簡単な取り調べで…」。
 「どこで?」
 「その場で」
 初めて聞かされた従軍時の様相だった。事も無げなその残虐はあまりに恐ろしく、また罪深く、同胞(はらから)として到底口に出せるものではなかったのだろう。長年の沈黙を破った後、僅かでも贖罪に繋がったのだろうか、日頃渋面の父の顔から、憑物が落ちたような、胸のつかえを吐き出したような、ほっと安堵の色が見えたが、私は瞬時に、30年前のあの出来事を思い出していた。あの時父は、心底染みついていた軍人たちへの不信と恐怖が蘇り、万一を怖れて咄嗟の逃走劇に及んだのではなかったか。父の心の奥底深く消えやらぬ恐怖と罪障感を残した旧日本軍残虐行為を感得し、思い知らされた時の間だった。

 古今東西の歴史が物語っている。ひとたび生死を賭けた戦(いくさ)が起これば、人は野生に戻って鬼畜と化する。そこでは、民主主義、平和主義、人間愛、友好……等々、人間を人間たらしめる近代の「人間性」はすべて虚構の、美名・スローガン・むなしごととなる。しかも、近未来の戦争は、最終の勝利を得るために「戦争抑止力」と称する核兵器を不可避的に使用するところとなり、それは地球上の生きとし生けるもの、否、海・山・川・大地・石ころ、地球上のあらゆるものに、きっと再生不能の惨禍をもたらす。世界の平和を祈願するバチカンのフランシスコ教皇は「戦争は常に人類にとって敗北」と世に訴えたが、今や戦争は人類にとって究極の敗北を意味している。
  隣国を侵して残酷な加害者となり、また、原子爆弾の被爆というこれ以上にない過酷な被害者となった日本民族。それ故にこそ、平和を訴え、戦争に反対する最高の資格を有する。このプライドを持って、とこしえに平和と反戦を訴えていくことが、われわれに与えられた地球的な使命だと言えないだろうか。

     鎮魂は終はらず候(そうろう)終戦忌   宗内数雄(1995年)

                           
* 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手・コメントを下されば、有難く存じます。
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宗内 敦(カラーピラミッド)

Author:宗内 敦(カラーピラミッド)
教育・文芸同人誌『琅』発行人
「書肆彩光」代表者
日本教育心理学会会員
日本ペンクラブ会員
”下記の著、拍手・コメントを頂戴した方に贈呈いたしたく。ご希望あれば、ご連絡下さい。”
 ☆『二言、三言、世迷い言』(書肆彩光 1012)
 

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