体罰教育、思いつくまま―体罰教育を生む土壌―

 さる地方新聞社が、特集記事で体罰関連の記事を書くため、取材に伺いたいと電話してきた。何故私かと問えば、TBSの「サンデーモーニング」で私が語っているのを見たからだという。来宅は断り、代わりに取材項目を決めて送ってもらい、それをメールで回答することにした。時間の節約、内容の正確も得られる利点がある。一晩かけて作成、そしてメールしたが、3日待っても返事が来ない。無礼な話だが、マスコミというもの、自分たちの都合で動くところ。使えればよし、使えなければ挨拶も無しに没にするだけ。それもよかろう。が、多忙極めるときにせっかく書いたものなので、こちらはそのまま,没というわけにも行かない。本ブログの前回、いずれ体罰論をまとめてみたいと公言してあること、思いだし、ちょっとまだまだ思いつきだけのものだが、関心ある方々へお見せしてみたい。なお、これは本当のことだけれど、本年中に、これまで書いた教育関連のエッセイをまとめて「教育問題、二言・三言」(仮題:「彩光文庫」)を出す予定。そこに、きちんとした体罰論を載せたいと思っている。ちょっと先の話ですが、関心のある方、ご連絡くだされば、贈呈いたします。


体罰教育、思いつくまま

① 体罰の歴史的背景
 よく、日本軍隊での残酷なしごきや暴力が安易に取り上げられたりするが、軽々単純に論じられる問題ではない。戦後教育との関連で、身近な問題に絞って主な要因を挙げると、
イ)指導者側の願望と体質・資質。
 どんな指導者も、指導者として名を上げたい,と願望する。とりわけ、スポーツ礼賛の時代では、(とりわけ、闘争的、格闘的要素の高い競技などの)スポーツ関連指導者にはそれが強い。しかし、彼らのなかには、自己の被訓練体験も含めて、体罰教育に対する信奉者が少なくない。このような人達が、諸々の事情と絡み合うとき(指導が思うように行かない、言うことに反発される、自己の境遇に不満がある…等)、体罰指導を選択させることになる。これは心理学で言うフラストレーション行動で、結果がよかろうと悪かろうと、異常に固着した指導行動(体罰行動)となる。付言すると、この落とし穴にはまりやすいのは、人格的に未熟で、さまざまに自信のないパーソナリティである。
ロ)学校側の願望
 スポーツに限らないが、どこの学校(とりわけ、首脳陣)にも、学校の名を上げたいという願望がある。とりわけ名門と言われる学校や私立校ともなれば、それは根強い。生徒を集める大広告にもなる。そのためには何をしても、と躍起になる。一方、東大に入れたい、一流にしたい、チャンピオンを作りたい…は国民的大望でもある。経済大国になるのと併行してますます過激になる競争主義、名誉主義。ある種の学校では、体罰指導だろうと何だろうと、卓越した成果を上げて学校の名を上げてくれてこその指導者だと、暗黙裏に体罰容認の思想が生まれる。ここも付言すると、営利主義の強い学校にその傾向が強く現れる。
ハ)学校と指導者の目的(いわば営利目的)の一致,合体。
 東京オリンピック以来、体罰を含む猛烈なしごきで成果を上げた例は、おそらく枚挙にいとまがない。それを見聞きした、体質的に親近な指導者が体罰に走ることは容易だろう。もし、学校首脳部が体罰容認の文化を持っていたなら、いとも簡単に体罰指導が常態化する。この場合、それは、学校と指導者の営利的目的が一致しているのである。即ち、スポーツ部が名を上げることによって、学校には志望生徒が増えて繁盛し、指導者には斯界における名声が高まり、爾後の立ち位置が有利になっていくことである。体罰指導の結果が、学校・指導者の両者にとって、いわば、爾後の諸々の営業的活動を有利に導くという幻想が働き、近年?、異常に高まっている。
ニ)保護者達の容認文化
 30数年前、当時小学生だった娘が参加したこともあって、東京都小学校の女子ミニバスケット決勝大会を観戦中、驚愕する出来事があった(『教師の権威と指導力』)。試合で負けたチームの女性監督が全選手を並べ、全員に平手打ち、なかの1人が監督に反抗したのか、特別に強烈な一発を食らい、会場壁の羽目板まで飛ばされた。しかし、観客も役員も誰一人注意する者もなく、訊いて回っても、よくあること、と問題視する者も居なかった。戦慄すべきは、こうした体罰文化を、選手の親たち、学校その他の関係者が、さまざまな思惑や理屈で容認してきたという事実が、ついに死者が出るほどまでに昨今の子ども達を追い込んできたと言うことである。ただ、この要因分析は、なかなか難しい。
*結
あれこれの事情で(とりわけ、体罰指導による成功的な事例に後押しされ)戦後の民主教育の裏道で体罰指導が次第に一般化し、戦後の民主教育の裏道で、いや、今や日の当たる大道の中で増幅し、特殊な世界(学校経営者、スポーツ関連指導者ら)では、いつか許容される強力なひとつの文化形態となってしまった。もし、学校の名が高まるなら、指導者としての評価が高まるなら、体罰もまたよし、否、積極的に行うべし-。

② 体罰をやめられない理由、体罰が横行する要因
おおかたは①の説明のなかにあると思われるが、各論的に、ほかに敢えて挙げれば、
<1次的、人格的要因>
イ)未熟な人格。特に、指導上で生じるフラストレーションに耐えることが難しい人。フラストレーション耐性の低格と言います。一般に次のような性格特徴を持っています。
ロ)攻撃的性情を身に潜めている人。
ハ)権威主義的な人。物事を、とりわけ人間関係を上下の関係性のなかで見る人。
ニ)自信のない人。指導する内容だけでなく、一般に多様なコンプレックスがあり、自尊心に欠ける人。
ホ)代償性行動の特徴ある人。とりわけ、スポーツをやることによって、学業そのほか諸々のコンプレックスを解消しようとしてきた人。
 こうした特徴を併せ持つ人は、生徒が理解しない、言うことをきかない等の場面では、他の指導法を考えるより先に、手が出て暴力が出て(即ち体罰教師)となりやすい。この場合、すでに指導ではなく、自分の緊張解消のための単なる「八つ当たり的,発散的な攻撃行動」というのが最もふさわしいが、これを自覚することはなかなか難しい。体罰が生徒の死を呼ぶまでに至っている昨今の事態からすれば、今や、すべてのスポーツ指導者達は、真剣に自己洞察をなして、自らの指導者適性を内省しなければならないと言える。
<2次的、環境的要因>
イ)傍から加わる成果主義の圧力。個々の学校の内部要因によってかなりの相違があるとは思われる。他者評価の圧力と言い換えてもよい。
ロ)成果を上げたい、あるいは上げなければならないといった自己圧力。これが自己のもともとのコンプレックスの解消と関わっている場合には深刻な事態を生じる。自己評価の圧力といってもよい。これらの圧力は、「周囲」および「自己のパーソナリティ」との相関関係のなかで、要因としての重みが変化する。
 ③ 体罰は指導たり得るか。
学習・指導の動機付けとして、罰は賞と並んで2大技法の1つ、そのもっとも極端な形が体罰である(勿論、動機付けの技法として、そのほか専門的・技巧的な方法がいろいろある。今の教師は、一体教師になるために何を学んできたのかと思うほど、おおかたはほとんどそれを知っていない)。昨今の人間観から言えば決して好ましからざるものではあっても、相手次第で大きな効果もあり、それ故に教育指導の実際場面での有益な教育指導法として、ある意味、ますます盛んになってきたものであろう。が、この問題は、教育に携わる人以外を対象に語ることは、なかなか難しく、また様々に誤解を呼んで危険である。このたびはコメントしないことにしたい。ただ、昨今では、体罰を容認しない、あるいは体罰教育が全く効果を生まない生徒が増え続けており、体罰教育の善し悪しは別にして、それ(体罰教育)自体は時代錯誤の指導法になりつつある。
 ④ 体罰教育は容認されるか。
現代の教育理念、規則・法律上の禁止規定から言えば、相手次第で効果があるからといって容認されるはずはない。体罰は犯罪行為と心得、体罰を伴うことのない、あらゆる有効な指導法を模索するのが教育である。
 ⑤ どうすれば体罰をなくせるか。
 この問題に関して、「how to」ものは存在しない。学校・教師・保護者の根本的な意識改革と反省が求められる。
イ) 指導者はなべて、教育の原点に立ち戻り、教育とは何かを真剣に問い直すこと。
 例えば、私は「平和的人格の育成」を第一としている。さすれば、被教育者を平和的人格にするはずもない暴力的行為を指導法となし得るわけがない。
ロ)指導者はなべて、己が教育者にふさわしいか否か、天(神仏)に向かって問い直すこと(手がかりは②の観点)。
ハ)学校内(とりわけ教育・指導現場)が常に保護者の視線が入るような透明性をもって開かれること。即ち、保護者が自由に構内を視察できるようにすること。
ニ)スポーツ指導者に対する「保護者の評価」(大学における、教師に対する授業評価と同じようなもの)を定期的に行う。
ホ)   


   (つづく)
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プロフィール

宗内 敦(カラーピラミッド)

Author:宗内 敦(カラーピラミッド)
教育・文芸同人誌『琅』発行人
「書肆彩光」代表者
日本教育心理学会会員
日本ペンクラブ会員
”下記の著、拍手・コメントを頂戴した方に贈呈いたしたく。ご希望あれば、ご連絡下さい。”
 ☆『二言、三言、世迷い言』(書肆彩光 1012)
 

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