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過ぎたるは及ばざるが如し―教育・しつけ・指導における副作用―

 何事かを成そうとすれば、目的を持って目標に向かい、いくつかの手段を用いて対象に迫る。大抵の場合、それは何ほどかの効果を上げるが、しかし、一方で、それとは裏腹に、なにがしかの逆効果を生むことも少なくない。これは副作用とでも呼称してよかろうか。こうした意味の副作用という言葉はいろいろな領域で、極めて普遍的に、そのマイナス効果を取り扱うときに用いられる。例えば最近(9・30)、臨時国会の最初の論戦となった衆院代表質問で、民主党代表の海江田万里氏は、昨今景気の回復に大いに役立っている円安について、中小企業の倒産にも繋がるなど、様々なマイナス効果を列挙し、「今まさに安部経済政策の副作用が表面化し始めている」と述べている。ついでながら、これに関連して、次のような新聞記事がある。
「『少しつらいが、自炊を増やすしかないな』。熊本市で電気設備の中小企業に勤める本田雄大(24)は、仕事帰りの午後9時すぎに台所で夕食を作る日が増えた。県内の企業は今春、平均1.3%の賃上げを実施したが、熊本市内の消費者物価上昇率(8月、3.6%)には及ばない。……都市と地方、高齢者と若者、大企業と中小企業……。リフレ政策の効果と副作用の影響がばらつくにつれ、世間の視線は格差に向く」(10・25「日経」朝刊)。
 さて、この一、二ヶ月、女子高校生による痛ましい殺人事件が続き、世間を震撼させている。一つは、過ぐる7月下旬、高校1年の女子生徒が親交のあった同学年の女子高校生を殺害の上、遺体を損壊したという長崎市における事件、二つは、今月初め、北海道南幌町で起きた、高校2年の女子生徒が同居する祖母と母の二人を刺殺した事件。何ゆえ、こうした異常な行動が……。どちらの事件も、事の真相はまだ定かではない。が、伝え聞くところでは、両者はともに、極めて圧力的な教育・しつけを受け、ままならぬ抑圧的な心境に追い詰めてくる養育者との関係性の中に身を置いていたようである。しかしまた、どちらの少女も、正常な発達を測る有力な指針たり得る学業・学力の水準は一定のレベルを越え、被圧的な環境の中でも必死の心理適応を実現していたようである。となれば、此度の事件は、異常ならざる人格が心理的に追い詰められた末に犯した事件、即ち、養育者の教育・しつけがもたらした、いわゆる副作用ではないか、と言い得よう。
 どの保護者も皆、よかれと思って、それなり懸命に教育・しつけを行っている。そしてそれなりの効果を上げている。ただ、それだけに、裏腹に生じてくる望ましからざる結果は、此度のように大きな出来事が惹起するまで、見逃され、また軽視されやすい。この、いわば教育の副作用は、遺憾ながら、何も子どもたちと保護者の関係に限られるものではなく、学校教育、スポーツ指導その他あらゆる教育・指導関係においても普遍的な事象である。2つの悲劇的な事件を契機に、二言、三言、この問題に触れてみたい。
 
 ところで、「副作用」と聞けば、まずは薬物のそれ(副作用)が頭に浮かぶ。元々この言葉は、ここに語源を持っていると思われ、また、薬物の副作用は、誰の身にもいつ襲いかかってくるかもしれぬ普遍的に危険な現象でもあり、常日頃、私たちはいのちと健康に深く関わるこの問題に強い関心を寄せ、それから逃れる手段をいろいろ模索しているからである。
 ここ数年、子宮頸(けい)がんワクチンによる副作用問題が世間の関心を呼んだが、過日、内科、神経内科、小児科などの専門医らで構成された「難病治療研究振興財団」の研究チームが、厚生労働省に寄せられた約二五〇〇件の子宮頸(けい)がんワクチンによる副作用報告を幅広く調べ直した結果、けいれんや歩行障害、記憶障害などの中枢神経系の障害、視力や聴力の低下などの重い副作用を持つケースが一一一二件の多きにのぼった、と報告した(14・9・14「日経朝刊」)。私たちは、老若男女を問わず、日常的に医療機関を訪れ、様々な薬物を調合・投与されている。この報告は、今さらながら、私たちがいつ「副作用」即ち「薬物被害」に襲われるかも分からないという不安をいっそう強くかき立てる。しかも、それはまさに他人事ではないのである。
 因みに私は、今、深刻な薬物副作用に悩まされている。数年前、さる医科大学の付属病院で「心筋梗塞」の診断を受け、薬物療法が始められ、下記の薬が投与されることになったが、その継続治療の結果である。
①バイアスピリン(朝1錠)②ラベプラゾール(朝1錠)③アイトロール(朝夕各1錠)④エースコール(朝1錠)⑤アーチスト(朝夕各1錠)⑥アトルバスタチン(夕1錠)⑦シグマート(朝夕各1錠)
 初め、薬効はあらたかだった。上り坂を歩けば必ずといってよいほどに胸部に生じていた締め付けられるような痛みがたちまちに失せ、血圧・コレステロール・血糖値などの血液検査の結果や、心電図その他、どこにも異常がなく、検査上は見事な健康体。そしてその後の3ヶ月毎の検診結果もいつも上々だった。そこで1年余り経った頃、薬が一つ(⑦シグマート)減らされた。が、ちょうどその頃、体の変調が始まっていた。血液検査等の結果は変わらず順調なのに、上り坂での胸痛がいつか復活し、やがて咳込み、痰を激しく吐くようになった。そのようになってから何度目かの検診日に担当医に訴えたところ、肺がんや肺炎の有無を調べてみるのはどうかと促され、レントゲン検査を受けたが異常は全く見当たらない。特に問題はないということで、薬の投与はそのまま続けられ、その後の血液検査等の結果はいつも良好そのものだった。しかし、咳・痰の激しさはいっそう増して、日常的に常態化し、吐き出す痰の毎日の量は、猪口一杯分にもなるのではないかと思えるほどになり、加えて目がかすみ、声が嗄れて、何とも息苦しく、かつ生き苦しい状態が続くようになった。それでも、担当医は、血液検査等のあまりの良好さに目が奪われてか、患者の要望にも拘わらず、薬の見直しをするまでには至らなかった。
 私は、インターネット上で、発売元の医薬会社が明かしている各種薬剤の副作用を調べてみた。案の定、②ラベプラゾール(主として胃腸整備剤)と④エースコール(主として血圧降下剤)の副作用欄に、胸痛、狭心症、咳、痰等が記されている。
  このようなとき、患者はどのように対処できるのか。地域医療機能推進紀行(JCHO)理事長・尾身茂氏が同じJCHOの研修センター長で総合診療指導医でもある徳田安春氏の経験例を紹介した「総合診療医」という最近の記事は、大いに参考になる。少し長くなるが引用してみよう。
  「……、さて、あなたが例えば目の病気になったらどうするか。眼科医に診てもらうだろう。当然だ。しかし、人間の体は複雑で原因がわからない場合も結構多い。
 以下、徳田さんの経験談だ。めまいを訴える若い女性。耳鼻科を受診するも耳鼻科的には異常なし。次に脳外科、さらに神経内科と移るが、やはり異常なし。困って総合診療科を受診した。総合診療医の得意技は、家庭環境や心を含めた全体から問題の核心に迫ることだ。症状、病歴をじっくり聞いて診察する。歩行困難に加えて顔のむくみ、声の変化、体重増、皮膚の乾燥があり、甲状腺機能低下症を強く疑う。早速検査すると甲状腺からのホルモン分泌が低いことが判明。ホルモン治療で一件落着。
 ではもう一件。骨粗鬆症の年配女性。最近便秘と筋力低下に悩む。消化器内科、外科、神経科でも原因不明。遂に意識障害に陥って総合診療科へ救急搬送。診察の結果、骨粗鬆症薬のカルシウム剤とビタミンDの過剰投与による副作用と判明した。
 これは氷山の一角だ。高齢になれば一人で複数の症状、病気を持つ。このため、専門科をあちこち回り、処方され薬の山が出来る。薬同士が干渉し思わぬ副作用に悩まされることもまれでない。欧米の調査では専門医と総合診療医が連携する地域では、医療の質が向上するという。わが国で本格的な総合診療医の養成が期待される。」(「日経」朝刊『明日への話題』14・9・4)
 しかし、総合診療医を探したり、このところ言われるセカンドオピニオンを求めたりすることは、言うは易く行うは難いことである。私は独断で、薬の服用量を、回数を制限するなどして三分の二に減らして験してみることにした。そして3ヶ月検診に臨んでみたが、検査の結果は相も変わらず良好。そして次の3ヶ月、また3ヶ月。薬を減らしても血液検査等の結果は変わらず、咳・痰は漸次減少し、やがてその苦しみからかなり解放された。その間、担当医は、「薬を飲み忘れた」と言う患者を暖かく見守っていてくれたが、実はしかし、私が副作用を疑った症状は、これだけではなかった。命には関わりないが、副作用欄には、「女性化乳房」「脱毛」というものも、明示されていて、よくよく気づくと、これらの症状も間違いなくかなり進行していた。いつしか胸部が、肥満した相撲取りのそれの様に膨らみ、これを見ては妻が目を見張り、また、過日、久しぶりに『琅』の会合に出席されたS氏が、「差し障りのある話になるかもしれませんが」と前置いて、薄毛が気になって育毛剤Rを使用したところ効用あらたかだった、と私の頭髪部の変貌ぶりを慮って、そっと暗示的な提案をしたものだった。
 私はさらに実験を試みることにした。今度は検診日まで、朝夕きちんと薬を飲むことにした。半月もすると、咳・痰が激しくなり初め、それでも次の検診日まで服用を続けたところ、以前のように、咳・痰の止むことのない生き苦しい状態がやってきた。私は確かな副作用の存在を確信したが、ここでようやく担当医師とも以心伝心、治療開始後4年有余、副作用を生じていると推測される②ラベプラゾールと④エースコールの両剤が外されることになった。
 それから3ヶ月、私の咳・痰は風や寒気などの刺激によって時折生じる程度にまで減少した。が、後遺症?としての嗄れ声は相も変わらず、また、遺憾ながら、脱毛、女性化乳房の状態は、未だ変貌したままである。
 さて、本題に戻ろう。

 
 簡略に言えば、心理社会的な不適応行動の多くは、ここで言う心理的副作用行動も含めて、周囲との関係性の中で生じるフラストレーション(欲求不満)やストレスによって引き起こされる「フラストレーション行動」である。それは、①盗み、けんか、放火といった非行、犯罪などの「反社会的行動」、②不登校・引きこもり・ニートといった退避的行動や、強迫神経症・心身症、うつ病・統合失調症といった精神疾患などの「非社会的行動」、③流浪、ヒッピー、ホームレスなどの「脱社会的行動」として現れ、一般に、「攻撃」と「退行」という2つの心理的特徴を持っている。
 攻撃性
 攻撃(aggression)とは、人またはその代替事物に対して、心理的・物理的に損傷を与えようとする動機や衝動、あるいはそれによって生じた反応や行動を言う。フラストレーションがあるところには必ず、怒りや恨みなどネガティブな感情と表裏一体となって生まれる基本的情動であり、その向かう先には、3つの方向がある。(フラストレーション―攻撃仮説―ダラード・J・ ほか)。
 ①フラストレーションを生じさせている相手(フラストレーションの源泉)に対して 一般にフラストレーションの源泉になるものは身近に存在し、あるいは攻撃するのに都合のよい対象である。例えば、しつけに厳しい親や教師、インキをかけた友だちやおやつを横取りした弟。攻撃行動はきわめて自然に、まずは初めに怒りを生じさせた直接の対象に向けられ、反抗や暴力となって現れる。家庭内暴力や校内暴力はその典型的、象徴的な形態である。
 ②対象の置き換え(八つ当たり) フラストレーションの源泉や攻撃の対象が明らかでないとき、あるいは自分よりも強大で攻撃することが叶わないときに生じる。大切なものが盗まれたり、勉強しても成績が下がる一方だったり、抵抗できない相手から叱責、暴力、体罰を加えられたりしたときなどがこれに当たる。子ども達はやり場のない憤りを、力のない友人や弟妹、あるいは小動物や事物に、鬱憤晴らしの暴力を加えて発散させる。時には、意識的あるいは無意識的に、親や学校の名誉を傷つけるために犯罪行為を犯して逮捕され、その怒りや恨み(攻撃性)を解消させることもある。
 ③自分自身に対して 上の二つの攻撃行動が周囲の力に屈して実現できない時、怒りのエネルギーは行きどころを失い、最後の手段として自分自身に向けられる。自傷行為や自殺がそれである。これらは最終的に、葛藤の果ての逃避行動でもあるが、脳の機能障害を起こして人事不省となり、幾日も眠り続けるという症例も稀ではない。
 退行(regression)
 置かれた状況に好ましからざる変化が生じると、人間というもの、つい、思考や行動が低次元化する。特に未成熟の子どもや若者では顕著である。弟妹が生まれて親の世話がそこに向けられがちになった幼児が赤ちゃん言葉を使い出して甘えてみたり、失恋した若者が大酒を飲んで道端で立ち小便をしたり、人を誹ることなどなかった生徒が、理不尽な叱責を受けて以来、担任教師の悪口を言い回ったりする。このように、人格や思考・行動様式が現在時点よりもいくつか前の未成熟な段階に戻ることを「退行」と言うが、人はフラストレーションに陥ると、必然的に、こうした退行現象を起こしやすくなる。(フラストレーション―退行仮説―バーカー・H・J・ ほか)。
  このように、人はフラストレーションに立ち至ると、人格的な退行を示しながら、生じ来る攻撃性に動機づけられ、様々な形でフラストレーション行動を引き起こす。それはフラストレーションの解消と心理的安定を求める適応機制的な目的的行動であり、それによって、フラストレーションは解消され、あるいは軽減する。さらに、フラストレーション行動には、自らの不満や緊張を和らげるだけでなく、一般には、周囲との関係性を変える効用がある。子どもの不適応な反応を見て、親・教師など周囲の人たちは、例えば、勉強を強要しすぎていたこと、しつけが厳しすぎたことなど、それまでの態度を内省し、あるいは反省して、子どもに対する姿勢や態度を変える。子どもは、良くも悪くも変容した新たな養育関係の中で、時には再度不適応なフラストレーション行動を生じることもあるが、新しい適応関係を模索することになる。
 しかし、言うところの「副作用行動」を引き起こす教育・指導関係では、こうしたフラストレーション解消行動や養育環境の変化が生まれることはめったにない。それは、教育・指導のあり方が、親や教師や指導者の社会的地位や経済力や暴力(体罰)など、圧倒的な力で子どもを抑え、言うがままに従わせる、権力的かつ専制的な、いわゆるスパルタ教育で成り立ち、極めて硬直的であるからである。
 子どもたちは、難関校を突破するため、あるいは優勝するために、塾だ、家庭教師だ、練習だ、道場だと休む間もなく追いまくられる。しかも、スパルタ教育の効果は、普通、他の様々な教育法よりも速効的で、それ故、行う側に最も優れた方法だといっそう信じ込まれ、ますますそれ(スパルタ教育)に拍車がかかる。一方、子どもの側では、逆行的に、やがてブレーキがかかり始める。追いまくられ、鞭打たれて、能力一杯の限界値に近い成果を上げてきた反動がやってくる。
①努力しても努力しても停滞し、あるいは低下する成績。
②次第に積もる疲弊感。ちょっぴり休息したいが、それでも強引に尻をたたかれる屈辱感と被虐感。
 やりたいこともやれないで来た不満も募る。そうした子どもたちにとって、それまで通りの気力を続けて、それ以上の進歩を見せるのは容易なことではない。フラストレーションが高まり、時には抵抗し、逃げ出し、勝手な振る舞いをしたくもなる。しかし、多くの子どもは、親や指導者の熱気や覆い被さる愛情の渦に圧倒され、見捨てられることへの恐怖もあって、愛憎二筋の葛藤のなか、立ち往生する。表立っての抵抗はできない。とは言え、ますます圧迫的になってくるスパルタ教育。逃げも叶わず、再び三度(みたび)、気力を振り絞っての努力もむなしく、ますますもがく子どもたち―。
 このように、子どもの能力を越え、いわば問題解決不能場面に至って、やがて忍耐の限界を越えた子どもたちはどのようなフラストレーション行動を生じるのだろうか。これに答を出しているのが、マイヤー・N・R・F・ のフラストレーション―異常固着仮説である。
 異常固着(abnormal fixation)
 マイヤーは、ネズミを高い跳躍台に乗せ、後方から強風であおり、無理矢理前方に跳躍させるという強制的な跳躍実験を通して、この問題に迫った。前方には操作的に開閉できるように作られた二つの同型の窓が左右に並ぶ仕切り板があり、窓が開いたときにはネズミは苦痛なく通過できるが、開かない時には衝突後落下して、苦痛を味わう。実験は4段階から成っている。
①問題解決場面(1) ネズミが衝突したときに、窓の一方(例えば右)は必ず開くが他方(左)はけっして開かないようになっている。初め左右ランダムに飛んで落下と通過を繰り返すうちに、やがてネズミは、一方の窓(右)が開いて苦痛から逃れられることを学習し、やがて右側方向にのみ跳躍するようになる。このネズミは次の段階に進む。
②問題解決場面(2) 問題解決場面の条件が変更され、窓の開閉が左右逆転されている。右に飛ぶことを学習したネズミは、右に飛んでは落下するうち、時折偶発的に飛んだ左の窓が開く。これを繰り返すうちに、ネズミはやがて右に飛ぶことを止め、専ら左に飛ぶようになる。
 こうして、問題場面を解決する能力と危機回避に向けての適応行動(目的的行動)を取ることが確認されたネズミは、第3の実験に導入される。
③問題解決不能場面 前2回の実験とは異なり、窓の開閉はネズミの跳躍時にランダムに決められ、基本的に問題解決が出来ない場面になっている。右方向に飛んで危険を回避することを学習したネズミは初め右に飛び続けるが、必ずしも窓は開かない。時折左に飛んでも全く同じで、成功と失敗は不規則に生じ、右に飛んでも左に飛んでも、苦難の場面から抜け出る法則性は全く見つからない。ネズミを擬人化して言うなら、彼らの苛々と苦痛は刻々と高まる。跳躍台に乗せられれば、嫌でも強風にあおられ、窓(仕切り板)を目指して飛ばなければならない。この過酷な状況から、ネズミたちはどのような行動に導かれるのだろうか。―やがて彼らは、、選択的に行動を変化させることを止め、何度も失敗して繰り返し痛い目にあっても、右なら右、左なら左へと、一方向的に跳躍する無目的的な固着的行動を続けるようになる。そしてネズミたちは、最後の実験へと験される。
④問題解決場面(3) 場面はいつか第一実験と全く同じ問題解決条件に変更されている。右にあるいは左に飛ぶようになったネズミが、その逆の方向に飛んだときには窓が開くようになっている。しかし、時折偶発的に逆方向に飛んで苦痛を避け得ても、ひとたび盲動的な固着行動を起こしたネズミたちは、第2実験の時のようには条件づけられず(学習せず)、相も変わらず、まるで決められたように、特定方向へと飛び続けたのである。
  マイヤーは、適応的、解決的行動を取ることが不可能な過酷なフラストレーション場面(解決不能場面)で生まれ、その後問題解決場面になってもいっこうに変容しないこの無目的的な固着的行動を、目的的行動の結果として生じる「習慣行動」と区別して「異常固着行動」と呼び、人間行動の中にも数多く見られるとして例示した。例えば、盗み・暴力行為など同じ犯罪行為を再三再四繰り返しては刑務所入りを繰り返す累犯性犯罪者がそれである。彼らは、幾度自制しようとしても、結局、同じ犯罪行為を暴発してしまう。異常固着たる所以である。これに対し、「習慣行動」は一見、目的を持たないかの如く見える場合もあるが、例えば歯磨き、洗顔、散歩、ジョギングなど習慣行動はすべて、他者(親)の承認を受けたり、あるいは健康を促進したりといった目的的行動として始まり、やがてその効用を自ら認識することによって一定の行動として定着したものである。もし、その行動が他者から非難を浴びたり、却って健康を阻害するようになれば、容易に消え去っていく。目的的行動たる所以である。
 マイヤーの実験を敷衍すれば、誰にも分かる。過酷な教育・指導場面で生じるフラストレーション行動、これがここで言う「教育の副作用」である。それは、最も典型的には、子どもの能力・欲求・適性を無視して闇雲に叱咤激励して行うスパルタ教育、即ち、やれ東大へ、やれ日本一へオリンピックへと追い立て駆り立てる、あるいは、生活態度を涵養するとて厳格きわまりない規律下におこうとする、教育者側の価値一本化の指導過程で生まれる。そのさなかでは、子ども達の必死の努力によって、それなり効果を上げることはあっても、多くは、子どもを心身共に疲弊させ、極限的なフラストレーション状態に追い込み、無目的な暴発行動という重篤な「副作用」をもたらすことになる。
 翻って、冒頭に挙げた此度の二人の女子高校生の起こした殺傷事件は、洩れ聞くその養育環境から見て、おそらくこの副作用によるものであるが、この副作用という視点から様々な反社会的行動を見直すとき、私たちは、以下の事実に対する峻厳な認識を持つことになる。
①子どもは事件の加害者であると同時に被害者である。
  これが他の領域の副作用、例えば経済事象や薬の副作用であるなら、すでに述べたように、クライエントはそれを様々に回避する手も打てる。しかしながら、教育・しつけ・指導における副作用は、圧倒的な力を持つ親・教師・指導者との、いわば囚人・人質の如き自由の無いがんじがらめの関係性の中で抵抗の術もなく追い詰められ、やむなく惹き起こされた「フラストレーション行動」であり、それ故子ども達は、全きの被害者なのである。こうした意味合いから、
②親・教師など教育者側は、被教育者への加害者であると同時に、事件被害者への(間接的)加害者である。
 副作用としての攻撃的行動の的がフラストレーション行動を引き起こさせた親や教師や指導者に向けられ、死傷事件が発生することもけっして少なくはない。たとえその場合でも、子どもの側はどこまでも被害者であり、親や教師らは事件の根源的加害者であって、まして盲動的攻撃の矛先が第三者に向けられて悲惨な事件が生じたとしても、その立場に変わりはなく、その責任は重大である。
 二人の少女が犯した此度の事件の衝撃は大きい。しかし、振り返れば、こうした副作用とおぼしき未成年者による類似の事件は、けっして稀なものではなく、これまでにも数多見られてきた。そのことはまた、それを生み出す教育・しつけのあり方が、それなりの評価を受けて、社会のどこぞに根強く存在し続けていることを示している。もちろん、それらがすべて悪しき教育の副作用であろうはずもないが、昨今、車や刃物を用いた通り魔的殺傷事件を起こしては、「人を殺してみたかった」と述べたり、あるいは、「イスラム国に参加して戦闘を経験してみたい」という、およそ目的なき目標を掲げる若者が散見されるようになっている。時代を担う子ども・若者が蝕まれていく現況、大いなる危機感が生じてくる。
  教育行為もまた、医療行為に似て、大なり小なり、その副作用なしに全うすることは難しい。異なる点はただ一点、クライエントがその副作用から自ら逃れるすべを持ち得ないということである。親であれ、教師であれ、スポーツ指導者であれ、およそ教育・指導に関わる者、そのこと謙虚に弁えて、なべてその副作用の意味するところをよくよく理解し、熱意の余りに〝副作用惹起教育〟など行って社会的加害者になることのないよう、常々、おのれの活動・行為を省みることが肝要であろう。

 終わりに当たって、不遜ながら、心理学という立場から長く育児と教育に携わってきた者としての達観を述べてみたい。家庭(および学校)における教育・指導・しつけの要諦・極意は「過ぎたるは及ばざるが如し、何事もほどほどがよし」、以下の如くである。
① ほどほどに甘えを受けいれ(可愛がり)、
② ほどほどに叱り(行動を禁止し)、
③ ほどほどに褒めて(行動を促進させ)、
④ ほどほどに自由を与える(己が道を探させる)、

  即ち、ほどほどにフラストレーションを与え、忍耐力を養いながら、自ら問題を解決し、自己実現を図らせる。他に大した教育の哲学など、不要であろう。子どもは個々に、その人格・個性に即して、己の道を見つけていくものである。

* 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手を下されば、有難く存じます。
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宗内 敦(カラーピラミッド)

Author:宗内 敦(カラーピラミッド)
教育・文芸同人誌『琅』発行人
「書肆彩光」代表者
日本教育心理学会会員
日本ペンクラブ会員
”下記の著、拍手・コメントを頂戴した方に贈呈いたしたく。ご希望あれば、ご連絡下さい。”
 ☆『二言、三言、世迷い言』(書肆彩光 1012)
 

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