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コピペ(剽窃)は止めよう、敢えてやるなら(寺山)修司のレベル(新しい世界)で-「教師の権威」に因んで-

 今回も、ちょっぴり長い。ご容赦あれ。
 前回ブログでは、川崎市男子生徒殺害事件に因んで、「危機を救えるのは教師だけ-教師はすべからく〝権威〟を持て」と題して、あらゆる教育・指導の根源たる「教師の権威」について力説した。実はこのテーマ、「カラー・ピラミッド・テスト」と並んで、いわば、私のライフワークである。この理論と実践をたくさんの教育関係者に学んでもらいたく、『指導力の豊かな先生』(1988)に始まり、『先生、出番です』(2007)、『教師の権威と指導力』(2012)と、版を重ねてきた。ありがたいことに、初版の『指導力の豊かな先生』は7刷までゆき、2版もそこそこ、3版の『教師の権威と指導力』もまた、わずか限定100部刊行の自費出版ではあるが、このほど第2刷に入っている。そして、心ある読者からのコメントもいろいろ聞こえて、私を痛く喜ばせている。
  しかし、世はまさにインターネット時代、反響の多くは私のあずかり知らぬネット上で流れ、時には今はやりのコピペで堂々と剽窃され、かつ誤用されて、その悪しき影響などありはしないかと、痛く懸念もさせてくれる。では、事ほど左様に取り上げられる私の原著はいかなるものか。前ブログでもかなり引用・抜粋したが、主題に関して故なしとはしない一節を、ここでさらに付け加えてみよう。

「子どもの逸脱した行動に対して教師がどのように対処するか(教師の統制力)、子どもたちは大きな関心を持って見ています。そして、教師の能力を厳しく評価します。騒ぐ子や逆らう子にお手上げの先生を見ると、まじめな子もふまじめな子も、当事者の子も非当事者の子も、
“あんなもんか、この先生”
“こりやぁ、教えることもたいしたことはないな”
“こんな先生の言うことなんか、聞くのは嫌だ”
 と、すっかり評価を下げ、これが原因となって指導力を低下させることにもなっていきます。
 逆に、問題の子どもや行動をきちっと抑えると、
“やるぅー。先生はこうでなくっちゃ”
“甘かぁないぞ、しっかりやらなくっちゃ”
  と、評価を上げ、指導力を向上させます。
  統制的な力を発揮するには、あとで述べるように、教師という地位と役割をたくみに利用して、自らの持っている他の教師権威に橋渡しをしてやることが必要です。地位と役割を利用することは、立派に権力的な行為ですが、これなくして、教師の指導力は完全なものにはなりません。権力的側面を含む統制力は、教師権威の重要な柱なのです。
  実際に、権威についての実証的研究でも、先駆的研究から現在の研究にいたるまで、権威の一つの柱に権力的側面を含めています。権威の研究のはしりになりますが、フレンチ(一九五九)という人は報償力、準拠力、専門力とともに正当力と強制力を権威の柱にしています。日本での研究でも、佐賀大学の田崎敏昭先生(一九七五年)が親近・受容、外見性、明朗性、熟練性、同一化のほかに正当性と罰をあげ、兵庫教育大学の浜名外喜男先生たち(一九八三年)も人間的配慮、外面性のほかに、まったく同じように罰と正当性をあげています。
 私も田崎先生にならい、たくさんの小・中・高の児童生徒を対象に
“先生の言うことに従うのはなぜですか”
 と問う形式の教師の権威に関する質問紙調査を何回も行ってみました。やはり、どの場合でも必ず、権威の一つの因子に罰や正当性などの権力的側面が出てきました。ここで、つけ加えておくと、正当性の権威とは“教師という役割がいろいろな権力的行為をなし得る正当性や必然性を持っているという(児童生徒の)認識から生まれる権威”です。
 このような研究の成果に教育臨床的な観察を加えて、私は教師の権威を次の四本柱にまとめました。
 ① 教師の学識・技能に基づく“専門性権威” 
 ② 教師の人格と人間性に基づく“人格的権威”
 ③ 教師と生徒の人間関係から生じる“関係性権威” 
 ④ 教師の統制力から生じる“統制的権威”
 なお、初めの二つの権威(専門性・人格性)は、教師が生徒との指導関係を離れても基本的に持っていなければならない一次的権威、あとの二つ(関係性・統制性)は、教師と児童生徒が具体的な関係を持つ中で派生してくる二次的権威と見ることができます。」(『教師の権威と指導力』39-41頁)

  「教師の権威」についての私の著作に関する記事の多くは、要点抜粋の短いコメントである。例えば「フトシさん」の「権力ではなく権威が教師に欠けていて、かつ必要とされる資質だといった内容です。権威と権力については、これをテーマとする良書が他にもたくさんあります。本書では指導力を発揮するためにという視点で、豊富な事例とともに語られています。」とか「よしドンブログ」氏の「読んでいると“なるほど”と感じられることばかりでした。タイトルの“教師の権威と指導力”というと固く感じられてしまいがちですが、まさに今抱えている問題の根底はここにあると思いました。子どもとの関係性を結ぶことの大切さを改めて教えてもらいました。」
   しかし、時には次の如き長文のものもある。

「今日はノートです。明星大学教授の宗内敦さんの『指導力の豊かな先生』(図書文化出版)から自分にだけ分かりゃいいやぐらいにまとめたものです。教師の権威にスポットを当てています。
 教師の権威とは何か。よく「権威」というものを「権力」と誤解して遠ざけたがる先生がいる。しかしそれは間違い。どちらも「他者を従わせる力」だが、権威---内的•精神的な力に基づいて自発的に従わせる力、権力---外的•物理的な力に頼って強制的に従わせる力。
 教師の指導力に関わる4つの権威
・専門性権威:教師の学識•技能に基づく
・人格的権威:教師の人格と人間性に基づく
・関係性権威:教師と生徒の人間関係から生じる
・統制的権威:教師の統制力から生じる
 *若くてやさしい美人の先生。初めのうちは生徒から慕われて「私のような教師を生徒は望んでいるんだわ」と誇らし気だったが、だんだんと嫌われはじめ最終的にノイローゼに。どうしてこうなったか、それは教師と生徒の関係が「専門的な関係」であると理解していなかったから。 
 では、専門的関係(カウンセリング用語)とは?
•親子関係や友人関係などの通常の人間関係とは異なり、特別の目的と独自の関係構造をもってそこから独自の関係性を発展させる関係(ちょっと難しい)。

•教師と生徒の関係は友達関係ではない。そこには特別な目的と独自の関係構造がある。カウンセリングでは「援助ー被援助」という関係構造の中でしか展開されないが、教育の場合はどうだろうか。おそらく「指導ー被指導」という関係になるだろう。先の女性教師はこれが分かっていなかったのだ。
   …
【結論と感想】
 …個人的には「権威」と「権力」ってのが自分の今持ってる問題意識とピタッと当てはまったこと、最近聞くようになった「生徒との関係は友達関係のようなのがいい」というのに同意できなかったこと、それが「専門的関係」という言葉で説明できるようになったこと。
 この3点において、この本は自分の問題を解決してくれたので有難い出会いだった。」(「指導者炎上」氏の「教師の権威」より)

 私の書物をここまで読みこなしてネットの上で語ってくれる。いかにも嬉しく、感激である。さらに加えて、滋賀県教育委員会主催の『滋賀の教師塾』なる教員研修会で、滋賀県立大学の那須光章教授が私の書を参考・参照しながら行った講演の要旨がネット上に見られる。まことに光栄の至りである。委員会の職員が要約した記事の一部をそのままここに載せてみる。

「……こうした資質態度があって、なお教師はあくまでも指導者であるべきとされ、その指導者として立つ位置は“権力”ではなくて“権威”にあると指摘されました。そして“権力”と“権威”は違うこと、情緒的な人間関係を超えて、子供が心から教師を尊敬し信頼することから生じる関係性豊かな指導関係が“教師の権威”であり、教科において、運動において、あるいは雑学と言われることであっても“あの先生すごいな”“あの先生出来るな”と思われるようになり、子どもと豊かな関係を持つことが大事で、そうしたことの積み重ねが“教師の権威”となり指導力の源泉になる、と指摘されました。ついで都留文科大学名誉教授の宗内敦氏の理論も引用されながら、その確立の方法へと講演は進んでいきました。
教師の権威は次の4つでもって構成されるとのことです。
1 専門性の権威:学識や技能に基づく権威
2 人格性の権威:人格や人間性に基づく権威
3 関係性の権威:生徒からの敬愛と信頼に満ちた関係により生み出される権威(基本的な教師権威を身につけた教師が受容的共感的な態度で児童生徒に接することによって生み出される)
4 統制性の権威:上記の権威が十分に形成された上で児童生徒の“逸脱行動を規制する”働きかけ、注意・叱責、懲戒などの管理・統制(ほったらかしにしておくと、注意してほしいと思ってやっている子やあの子だけ何で見逃すのと思う子を裏切ることになり、徐々に権威が失われていくことになる)
  この4つの権威を獲得していく手立てとして、まず“教科の力をつける”こと、“発達のメカニズムを知る”こと、そして“教師としての人格を形成していく”こと、これらが大事であり順次形成されていくと権威が高まると指摘されました。とりわけ“統制性の権威”だけで対応しようとするとつまずくとの指摘もありました。」(「平成23年度 第五期『滋賀の教師塾』入塾式〔第1回必修講座〕の様子」より抜粋)

 こうしたコメントや記事がネット上で公開されることは、私が言う「教師の権威」が教育の世界で正しく理解され、教師の指導力を高めていくことに大きく貢献するとも思われ、著者冥利に尽きるというものである。しかし、安易に喜んでばかりはいられない。世はまさにまさしくコピペ(剽窃・盗作)時代、悪しき利用目的のコピペも生まれ、著作権の侵害はまだよいとして、時には誤用されて、著者の意図したものと全く異なる方向に向けられているものもある。以下は、某教育委員会管理の然(さ)る教師志望者向けの塾で語られたとされ、「統制力も大きな教師権威の一つ」というテーマでネット上にアップされているものである。

「子どもの逸脱した行動に対して教師がどのように対処するかを、子どもたちは大きな関心をもって見ています。騒ぐ子や逆らう子にお手上げの先生を見ると、当事者は勿論、傍観している子どもも、“こんなもんか、この先生”とすっかり見くびられ、これが原因となって一層指導力を低下させることにもなります。逆に、問題の子どもや行動をきちっと抑えると、“やるぅー。甘かぁないぞ、しっかりやらなくっちゃ”と評価を上げて、指導力がさらに向上します。
 統制的な力を効果的に発揮するには、教師という地位と役割を巧みに利用して、自らのもっている他の教師権威に橋渡しをしてやることです。地位と役割を利用すること自体は権力的な行為だが、これなくして教師の指導力は完全なものにはなりません。
権力的側面を含む統制力は、教師権威の重要な柱です。
 権威の研究のはしりになるフレンチ(1959)は、報償力、準拠力、専門力とともに正当力と強制力を権威の柱にしています。日本での研究でも、佐賀大学の田崎敏昭教授(1975)が親近・受容、外見性、明朗性、熟練性、同一化のほかに正当性と罰をあげ、兵庫教育大学の浜名外喜男先生たち(1983)も人間的配慮、外面性のほかに、全く同じように罰と正当性をあげています。
 小・中・高の児童・生徒を対象に『先生の言うことに従うのはなぜですか』と問う形式の教師の権威に関する質問調査によると、権威の一つの因子に罰や正当性などの権力的側面が出てきます。ここで、つけ加えておくと、正当性の権威とは“教師という役割が、いろいろな権力的行為をなし得る正当性や必然性をもっているという(生徒の)認識から生まれる権威”です。
1.教師の学識・技能に基づく“専門性権威” 
2.教師の人格と人間性に基づく“人格的権威”
3.教師と生徒の人間関係から生じる“関係性権威” 
4.教師の統制力から生じる“統制的権威”
  初めの二つの権威(専門性・人格性)は、教師が生徒との指導関係を離れても基本的にもっていなければならない一次的権威です。後の二つ(関係性・統制性)は、教師と生徒が具体的な関係をもつ中で派生してくる二次的権威と見ることができます。統制的権威は、権力に近いものと言えます。これらの権威をバランスよく働かせることで、生徒を導いていくことが大切と言えます。“言葉で人を導く人尊し。黙したままでも後ろ姿で人を導ける人さらに尊し”です。」

 唖然とするコピペ。前掲の原著と見比べればたちまち分かる。最後の数行を除いて、初めから終わりまで、すべて私の著書を丸々写し取ったものであるが、全く己のオリジナル文であるかのごとく振る舞っている。もちろん、渾身の力を絞って研究し、その結果に拠りつつ推敲に推敲を重ねて書き上げた苦労の果ての作品をいとも簡単に剽窃することはけっして許容されることではない。しかし、それ以上に罪深きは、不用意な文言、即ち「統制的権威は、権力に近いものと言えます。これらの権威をバランスよく働かせることで、生徒を導いていくことが大切と言えます。」が付加された剽窃後の「似て非なる文章」が、主題たる「教師の権威」の意味を原典の意図するものと全く相反する方向へ導く虞(おそれ)があることである。
  もともと、「教師の権威」なるものは、「教師の権力」とはまったく相容れないものである。それ故、“バランスよく働かせる”などといった傲慢かつ権力的な表現をもって扱われるものではけっしてない。まして「統制的権威」というものは、教師の地位と役割に基づくやむなき統制行動が、培われた関係性権威によって支えられ、また生徒に受容されながら、教師―生徒関係におけるぎりぎりの緊張状態を通過する中で生まれるものである。いわば受動的、かつ止揚的なものであり、「権力」などとは基本的に異質・無縁なものである。
 ここは、「教師権威」について云々するところではない。ただ、上掲の「似て非なる文章」がそのまま正論として受け容れられれば、それこそ、安易に体罰に走る教師が容認され、また作り出される基盤となる虞があり、真に危険である。これだけは述べておいて、では、次に移ろう。
  話変わって、夭逝の文芸家、寺山修司について。以下は、エッセイ集『二言、三言、世迷い言』より抜いた私の文章(「盗作問題寸感」、初出:「琅」No.18)である。

「……盗作といえば、ついと思い出すのが、同い年の、かの、故寺山修司である。彼は、昭和二九年の大学一年時に、『短歌研究』の新人賞を新しい感性と叙情性豊かな『チエホフ祭』をもって獲得、衝撃的な文壇デビューを飾ったが、その直後に発覚した、著名俳人らの俳句作品からの剽窃もまた、世間を驚かせた。
 取り込まれた俳句と、修司の歌のいくつかを示すと、
・人を訪はずば自己なき男月見草 草田男
 向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男 修司
・わが天使なるやも知れず寒雀 三鬼
 わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る 修司
・燭の灯を莨火としつチエホフ祭 草田男
 莨火を床に踏み消して立ち上がるチエホフ祭の若き俳優 修司
・蛮声をあげて晩夏の森に入る 数雄
 蛮声をあげて九月の森に入れりハイネのために学をあざむき 修司
 最後の“蛮声を・・・”は、<光栄>にも、寺山より三歳年長の当時まだ大学生だった私の兄の作品である。ということも手伝って、私は当時、寺山と、結局はその“盗作”を受容したマスコミ・文芸界を激しく嫌悪したが、今になって思えば、いつかそれを許容するところとなっている。理由は、簡単である。元歌となった俳句と剽窃した寺山の短歌は、全く異質の別作品であるからである。同じ言葉を用いてはいても、俳句各作品が、俳句作法や詩歌に心得のない常人にとっては容易には感知し得ない抽象世界を描いているのに対し、寺山短歌は実に平明直截、たやすく感情移入なし得る叙述具象の世界を写している。それは俳句と短歌のもともとの違いでもあろうが、このように両者は対象に迫る方法論を異にし、全く異質の精神世界に関わっている。
 また、見方を変えれば、寺山作品は元歌俳句の宏遠な抽象世界の一つの具象的解釈を短歌形式で示したものに過ぎない、とも言える。例えば、例示した中村草田男の“人を訪はずば自己なき男月見草”、一体何を徴しているのか、全く理解に苦しむ。しかしながら、これを下敷きにした寺山の作品は至って明快、“自己なき男”が直截に分かる。そして、ここが重要だが、この寺山短歌を読み、後に草田男俳句を見直せば、驚くまいことか、草田男俳句が何を言おうとしていたのか、じわりと、はてはその高遠な思想や背景までが伝わってくる。即ち、われわれ凡人にとって難解な草田男俳句が、寺山短歌を踏み台にして初めて、その抽象された世界を展く。これは、他の元歌俳句と寺山短歌の関係においても全く同じである。かくして、寺山の行為と作品を剽窃といい、盗作と言って非難し、あるいは本歌取りと言って擁護するなど、どちらも当たらない、と思うのである。……」

  この文章、「週刊読書人」の「文芸同人誌評」で、文芸評論家・白川正芳氏から、「考えさせられるエッセイ」と望外の評を頂戴した。そこでは、下線を付した部分が要点として取り上げられている。それを読んだ読者たちであろう、寺山修司に対する貴重な論考と受け止めたのか、その後、掲載誌の送付依頼が相次ぎ、大変好評だった。この寺山修司に関する拙文、ここに敢えて引いたのは、もちろん、故あってのこと。たとえ著作権侵害に当たる虞があるとしても、剽窃後の作品が、万一、原典作品とは異なる新しい世界を描き得ているなら、許容されることもあり得る、ということである。しかし、もし、そうでないとするなら、まして原典の意味を取り違えたり、価値を貶めたりすることになるなら、安易なコピペは厳に戒めるべき犯罪行為だと知るべきである。
 それにしても、誰も論じることはなかったはずの寺山修司に対する私の見解、ネット上で見るに、これもまた、断ることなく、まるで己(おのれ)のオリジナルな考え・視点のようにして述べる向きがいくつか見られた。嗚呼!

* 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手を下されば、有難く存じます。
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プロフィール

宗内 敦(カラーピラミッド)

Author:宗内 敦(カラーピラミッド)
教育・文芸同人誌『琅』発行人
「書肆彩光」代表者
日本教育心理学会会員
日本ペンクラブ会員
”下記の著、拍手・コメントを頂戴した方に贈呈いたしたく。ご希望あれば、ご連絡下さい。”
 ☆『二言、三言、世迷い言』(書肆彩光 1012)
 

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