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新生銀行、お前もか。― 〈人か、組織か。拝啓、新生銀行殿〉―

  泣く子と地頭には勝てぬ?

 新生銀行こそは、サービスのよい好ましい銀行だと思っていた。預金・出金は他の金融機関のATMからでも無料で行うことができるし、なにがしかの預金残高があれば、何回か無料で各所にネット送金ができる。ほぼ10年前、たまたま迷い込んだ八王子支店の店先で応対してくれた愛くるしいK嬢の心地よさに惹かれ、ついついグロソブなる投資信託まで購入したのが、取引の始まり。その後、ネット送金、出先での必要金銭の引き出しなど、便利に利用し続けてきた。それがこの度、あっと驚く対応があり、恐れ入った。その内容は、あきれ果てて先般このブログ欄で取り上げたあのみずほ銀行と全く同じ、いやいやそれを遙かに凌ぎ、人(庶民)を人とも思わぬ金融機関をまさに象徴し、庶民が頼れる銀行があるなどと、いっときでも幻想に陥っていた己の愚かさを痛切に知らしめてくれるものだった。さては、無料出金、無料送金などのサービスは、貧しく愚鈍な人間をだまし引きこむ単なる手段に過ぎなかったのか―。
  ことは単純明快である。先のトラブルの後、みずほ銀行との取引を中止して他の金融機関に現金・証券類を移し替えたことをきっかけに、(大した額ではないが)いろいろ分散していた金融資産の預け先機関を整理することにした。そこで、預金は馴染みの郵便局(ゆうちょ銀行)と新生銀行、株式・投資信託はSBI証券へとそれぞれ移管して預け先を簡略化することにし、新生銀行については、まずは預託中の投資信託(グロソブ)をSBI証券会社へ移管しようとしたのであったが……。
  いかなる根拠に基づくのか、新生銀行(八王子支店)では、投資信託については、移管は行っていない、即ちできないとのことである。これは驚き、これではまるで、転校希望の生徒に対して転校は許さない、嫌なら退学してから転学せよと言うに等しく、大変な権利侵害問題である。そこで取引約款を当たると、「当行は、お客様からのお申し出があり、当行が承諾した場合には、他の口座管理機関へ振り替えを行います。ただし、当該管理機関において、お客様から振り替えの申し出があった銘柄の取扱いをしていない場合、当行は振替えの申し出を受け付けないことがあります。」(投資信託総合取引約款・第3章、29の1)となっている。これなら、他の証券・金融機関と内容的にほとんど異なるところはない。SBI証券はグロソブを扱っており、それを移管できないとは筋が通らぬ。そこで、「移管できない理由は?」と問えば、これまた何と、「当行は内部規約により、これまで一度も証券類の移管は行ったことがない」と突き放してくる。あとは、店にまで直接訪れても、お客様相談センターなる窓口に問い合わせても一向に変わることなく、やがて、「約款」に従って移管はできないという訳の分からぬ内容の"文書回答"までやって来た。

 さてさて、泣く子と地頭には勝てぬ、という故事ことわざがあるが、ここに至って、まさにまさしく、そう思った。
 泣いて喚く子は自分の理不尽は露ほど思わず、また強(こわ)面(もて)の地頭は理不尽は百も承知の上だから、どちらも己(おのれ)をどこまでも押し通す。弱い大人や力なき庶民は、理の通じない相手にはいかに道理を尽くしても所詮勝ち目がないから、堪えにこらえ、ハイハイ分かりましたと引き下がる。これが即ち「無理が通れば、道理が引っ込む」、古今東西まかり通る「不合理なる道理」のメカニズムである。この泣く子と地頭を現代風に翻訳するなら、例えば、生徒に対する体罰教師、選手に対する暴力支配のスポーツ関係指導者、被疑者に対する警察官、被融資者に対する銀行マンといった、ある種の関係性の中でなにがし優位に立つ者をいう。
  しかし、それでよい訳(わけ)はないだろう。泣く子と地頭は増長してますます悪徳を重ね、小役人的な小権力主義者となり、いじめ・意地悪文化を根っこで支えて、たくさんの被害者を連綿とつくりだす。学校、企業、その他どこもかしこも、いじめ・パワハラ等による重い精神障害や自殺に追い込まれる被害者が後を絶たない時代である。これを無縁の事象とけっして思ってはなるまい。泣く子と地頭を野放しにして、こうした風潮・文化を根っこで支える我々〝弱き〟人種たちにも大きな責任がある。万一そういう輩に出会ったら、もちろん己のため、また世の中のためにも、きっと退治するのが務めと心得るべきである。

 一昨年、みずほ銀行とのトラブルがあったばかりで、もう銀行とはもろもろ余計な関係を持ちたくないと思い、取引金融機関を整理しようとする最中での降って湧いた、同種出来事である。みずほ銀行とのやりとりはいろいろあったが(「人か、組織か。―〈拝啓、みずほ銀行殿(6)〉『琅』26号」)、私をして最も怒らせたものは、今般と同じ、購入した投資信託の他社への移管拒否問題、即ち人権侵害問題であった。当方の移管申し出に対し、初め規約上できないと拒否し、次いで、売却以外に手は切れないと強硬だったが、結局、規約上できることが分かった、と担当者が謝罪してきて解決したものである。当然と言えば当然、証券類は所有者本人(名義人)のもの、それをどこに移すかは所有者の自由であり、それを留め立てする権利は他の誰にもあろうはずがない。然るに今般、またしても全く同様の出来事が新生銀行との間で生じた。しかも、先般(みずほ銀行)とは異なり、此度はまさに応対者個人の問題ではなく、びくとも動かぬ銀行組織そのものとして立ちはだかってきた。これを〝地頭〟と呼ばずして何と呼ぼうか。
 この問題に関して、三つの機関に連絡し、また相談した。一つ目は、、ある意味では法的な機関でもあり、国民が各所金融機関で購入した株式等の証券類を組織的に一括管理する「証券保管振替機構」(通称、ほふり)。しかし、移管拒否問題については〝遺憾ながら関与する権限・機能が無い〟として、株式や投資信託などの金融商品取引に関するトラブルを公正・中立な立場で解決を図るとする「証券・金融商品あっせん相談センター」を教示するに留まった。
 二つ目がこの「証券・金融商品あっせん相談センター」。電話で斡旋を申し込んだところ、極めて共感的で、即座に新生銀行本部に対して電話で斡旋行為に及んでくれた。が、「銀行側が約款に従い移管はできないの一点張りで手に負えない」とやむなく匙を投げた。そこで、三つ目に選んだのが、金融機関の監督機関たる「金融庁」である。それは、かりそめに電話したさる簡易裁判所の電話相談室の担当事務官から示唆されたことによるのだが、インターネットで調べてみると―、なるほど、金融庁には、心強くも、「金融行政・金融サービスに関する一般的なご質問・ご相談・ご意見を金融サービス利用者相談室で受け付けています。頂いたご質問・ご相談については、相談員がお電話にてお答えします。また、頂いたご意見については、金融庁内で共有し、今後の金融行政に活用させていただきます」と唱え、〝皆様の「声」をお寄せください!〟と訴える「金融サービス利用者相談室」があった。
 これだ、と思わず直感した。40年ほど前の、ちょうどバブル経済走りの頃の出来事が咄嗟に脳裏を横切った。3年間毎月積立預金をすれば、その3倍を限度に住宅資金を貸し付けるという労働金庫の積立預金を終えた時のこと、何という理不尽、いざ住宅ローンの貸し出しを申請すると、3年間積んだ預金はローン返済終了時まで拘束預金として預かる、と労金側が言い出したのである。これでは資金不足で住宅など全く購入できない。思案の末に赴いたのが、労金の監督官庁たる労働省(現・厚生労働省)―、そこでの対応は、実に見事だった。担当官は、私の目の前で、預金先の労金新橋支店に電話を掛け、問い始めた。その折のことを、私は拙著のなかに留めている。役人たる者、国民のためにすべからくかくあるべし、ここに再録してみよう。

「積立住宅ローンというのがありますね」
「はい」
「三年間の積立期間終了後、それ(積立金)を拘束預金にするということにはなっていませんね」
「はい」
「お可笑しいですね。今、私のところに、積立預金をそのまま拘束預金にしなければ住宅ローンはできないと言われたという人が見えているのですが…」
「??!」
 翌日、支店長と副支店長が大きな菓子折を持って、飛んで我が家まで謝りにきた。
       (『二言、三言、世迷い言』「官こそ恃み」二〇一一年)

 しかしながら、これに比べて此度の金融庁の対応は、全く想像だにできないものだった。細かいやり取りは置いて、相談員が述べた結論のみを上げると、とどのつまり、「民事不介入で、当否についても言及できない」とのこと。そこで上記の事例を聞かせて監督官庁の役割を問えば、「労働省の行為は労金に対する越権行為」であり、「金融庁は金融機関への干渉は一切しない」、と、権利侵害を訴える当事者からすれば、いわばけんもほろろの対応である。
 調停斡旋の機関で駄目、監督官庁でも駄目とくれば、もはや民事的に解決する手がなくなり、あとは司法の手に当否の判断を委ねる以外に道はない。ただその前に、金融庁が私の訴えをどのように把え、それを伝え聞いた新生銀行が金融庁にいかなる回答をしたか、その正確なところを確認しておく必要はあるだろう。
表2が、これを確認するために行った、金融庁への「保有個人情報開示請求書」。各文書の写しの送付を求めている。そして表3がこれに対する金融庁の回答で、全面開示はせず部分開示となっている。しかし、文書の写しはかけらもない。また、「金融庁に対する新生銀行からの回答書は保有せず」、となっており、無責任極まるものであった。
 これは真剣に物事の解決を思案する申立人(換言すれば国民)を愚弄するに等しい。それ故、この回答書に対して、新生銀行からの回答を保有していないことの理由開示と共に、全部開示を求めて、15年7月9日づけで異議申立を行った。が、しかし、2ヶ月を経過した今日まで、未だ回答はない。

 ちょっぴり目を転じて、北朝鮮、ロシアという近隣二つの国に触れてみよう。
 まず北朝鮮という国。世界中が平和を希求し、戦争を回避せんとする風潮・文化が進む中、言わずと知れた日本人拉致問題で日本国中を悲憤慷慨させ、揚げ句に、拉致被害者を人質同然に経済援助を要求し、時に核弾頭運搬手段ともなり得るミサイル発射実験を行って、日本国家・国民を脅迫する。
 次にロシアという国。第二次大戦終了時、日ソ中立条約を破って日本の敗戦を決定的にし、その勢いで、南樺太・千島列島、さらには北海道と地続きの感さえある択捉島など北方4島まで占領して自国領として今に至る。北方4島に関しては一九五八年の日ソ共同宣言で、「平和条約締結後、日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す」とされているが、現在ではその実効支配も極度に進み、もはや返還する兆しもない。
 日本によって長く属国支配された朝鮮民族、日露戦争における屈辱的な敗戦を味わったロシア民族、これらが両国家・国民に与えた屈辱と怨念は血肉となって受け継がれてきたに違いない。が、しかし、それをどれほど斟酌しても、今日的平和観をもってしては、日本国および日本国民にとって、まさにこの両国、〝泣く子と地頭〟ではあるまいか。これに尖閣諸島問題を絡めて中国のさらなる軍事国化を考慮すると、憲法違反の疑義や批判が様々あるなか、この度の安保法案改正を無理押ししてでも成立させた、一国を預かる身としての安倍総理の思いは痛いほど分かる。が……、おっと、脱線。
  世界に向かって平和思想の先導者たらんとするわれわれ日本国家・国民。少なくとも国の中では、いじめ・意地悪の元凶となる〝泣く子と地頭〟にはならぬよう、そしてならさぬよう、きっと振る舞いたいものである。(9月9日:加筆)

 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手・コメントを下されば、有難く存じます。

* 本稿の続編が「人か、組織か(2)―〈拝啓、金融庁殿&総務省「情報公開・個人情報保護審査会」殿〉」、そして「降りかかる火の粉は払わねばならぬ―泣く子と地頭は諸悪の根源―(人か、組織か⑶ 拝啓、新生銀行殿)」です。是非にもお読み頂き、また、コメント等頂戴できれば、まことに有難く存じます。

コピペ(剽窃)は止めよう、敢えてやるなら(寺山)修司のレベル(新しい世界)で-「教師の権威」に因んで-

 今回も、ちょっぴり長い。ご容赦あれ。
 前回ブログでは、川崎市男子生徒殺害事件に因んで、「危機を救えるのは教師だけ-教師はすべからく〝権威〟を持て」と題して、あらゆる教育・指導の根源たる「教師の権威」について力説した。実はこのテーマ、「カラー・ピラミッド・テスト」と並んで、いわば、私のライフワークである。この理論と実践をたくさんの教育関係者に学んでもらいたく、『指導力の豊かな先生』(1988)に始まり、『先生、出番です』(2007)、『教師の権威と指導力』(2012)と、版を重ねてきた。ありがたいことに、初版の『指導力の豊かな先生』は7刷までゆき、2版もそこそこ、3版の『教師の権威と指導力』もまた、わずか限定100部刊行の自費出版ではあるが、このほど第2刷に入っている。そして、心ある読者からのコメントもいろいろ聞こえて、私を痛く喜ばせている。
  しかし、世はまさにインターネット時代、反響の多くは私のあずかり知らぬネット上で流れ、時には今はやりのコピペで堂々と剽窃され、かつ誤用されて、その悪しき影響などありはしないかと、痛く懸念もさせてくれる。では、事ほど左様に取り上げられる私の原著はいかなるものか。前ブログでもかなり引用・抜粋したが、主題に関して故なしとはしない一節を、ここでさらに付け加えてみよう。

「子どもの逸脱した行動に対して教師がどのように対処するか(教師の統制力)、子どもたちは大きな関心を持って見ています。そして、教師の能力を厳しく評価します。騒ぐ子や逆らう子にお手上げの先生を見ると、まじめな子もふまじめな子も、当事者の子も非当事者の子も、
“あんなもんか、この先生”
“こりやぁ、教えることもたいしたことはないな”
“こんな先生の言うことなんか、聞くのは嫌だ”
 と、すっかり評価を下げ、これが原因となって指導力を低下させることにもなっていきます。
 逆に、問題の子どもや行動をきちっと抑えると、
“やるぅー。先生はこうでなくっちゃ”
“甘かぁないぞ、しっかりやらなくっちゃ”
  と、評価を上げ、指導力を向上させます。
  統制的な力を発揮するには、あとで述べるように、教師という地位と役割をたくみに利用して、自らの持っている他の教師権威に橋渡しをしてやることが必要です。地位と役割を利用することは、立派に権力的な行為ですが、これなくして、教師の指導力は完全なものにはなりません。権力的側面を含む統制力は、教師権威の重要な柱なのです。
  実際に、権威についての実証的研究でも、先駆的研究から現在の研究にいたるまで、権威の一つの柱に権力的側面を含めています。権威の研究のはしりになりますが、フレンチ(一九五九)という人は報償力、準拠力、専門力とともに正当力と強制力を権威の柱にしています。日本での研究でも、佐賀大学の田崎敏昭先生(一九七五年)が親近・受容、外見性、明朗性、熟練性、同一化のほかに正当性と罰をあげ、兵庫教育大学の浜名外喜男先生たち(一九八三年)も人間的配慮、外面性のほかに、まったく同じように罰と正当性をあげています。
 私も田崎先生にならい、たくさんの小・中・高の児童生徒を対象に
“先生の言うことに従うのはなぜですか”
 と問う形式の教師の権威に関する質問紙調査を何回も行ってみました。やはり、どの場合でも必ず、権威の一つの因子に罰や正当性などの権力的側面が出てきました。ここで、つけ加えておくと、正当性の権威とは“教師という役割がいろいろな権力的行為をなし得る正当性や必然性を持っているという(児童生徒の)認識から生まれる権威”です。
 このような研究の成果に教育臨床的な観察を加えて、私は教師の権威を次の四本柱にまとめました。
 ① 教師の学識・技能に基づく“専門性権威” 
 ② 教師の人格と人間性に基づく“人格的権威”
 ③ 教師と生徒の人間関係から生じる“関係性権威” 
 ④ 教師の統制力から生じる“統制的権威”
 なお、初めの二つの権威(専門性・人格性)は、教師が生徒との指導関係を離れても基本的に持っていなければならない一次的権威、あとの二つ(関係性・統制性)は、教師と児童生徒が具体的な関係を持つ中で派生してくる二次的権威と見ることができます。」(『教師の権威と指導力』39-41頁)

  「教師の権威」についての私の著作に関する記事の多くは、要点抜粋の短いコメントである。例えば「フトシさん」の「権力ではなく権威が教師に欠けていて、かつ必要とされる資質だといった内容です。権威と権力については、これをテーマとする良書が他にもたくさんあります。本書では指導力を発揮するためにという視点で、豊富な事例とともに語られています。」とか「よしドンブログ」氏の「読んでいると“なるほど”と感じられることばかりでした。タイトルの“教師の権威と指導力”というと固く感じられてしまいがちですが、まさに今抱えている問題の根底はここにあると思いました。子どもとの関係性を結ぶことの大切さを改めて教えてもらいました。」
   しかし、時には次の如き長文のものもある。

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「教師はすべからく〝権威〟を持て」、生徒の危機を救えるのは教師だけ -川崎市男子生徒殺害事件に因んで-

「教師はすべからく〝権威〟を持て」、生徒の危機を救えるのは教師だけ
  -川崎市男子生徒殺害事件に因んで-

「教師はすべからく〝権威〟を持つべし」。教育臨床心理学者として信じてやまない私の持論である。それ故にこそ、敢えて、『指導力の豊かな先生』(図書文化 1988)と『先生、出番です』(雇用問題研究会2007)を合わせて一本の、教師権威の理論と実践の書『教師の権威と指導力』を出版した(書肆彩光 2012)。思いは一筋、教師の専門性を高め、教育職を真の専門職たらんとするためである。しかしながら、教育職の専門職への道は遠い。その専門性が云々される出来事がまたしても生じた。

 川崎市川崎区の多摩川河川敷に、深夜未明(2/20)、中学1年の男子生徒が刺殺されたまま放置されるという無残な事件が発生した。犯人として17、18歳の少年3人が逮捕されたが、被害者は加害者らのグループと交遊するようになって不登校状態(不登校)に陥り、いつか、腫れ上がるほどに顔面を打たれるなど、主犯格の少年から暴力的支配を受けるようになり、揚げ句に事件当日、無理矢理冷たい川で泳がされた後、カッターナイフで嬲るように刺殺されたというものである。
 事件は、家庭事情、地域社会状況、交友関係など、子どもを取り巻く環境が多様化するなかで、それらが複雑に錯綜して生じた。事件被害者が学校不適応に陥ってから事件に至るまでの経緯が明らかになるにつれ、衝撃を受けた川崎市当局は、「教育現場だけの問題対応では難しい」として庁内対策会議を設置し、市教委が出した解明結果を踏まえ、子どもや福祉の担当部署と連携し再発防止策を検討することになった。これを受けて、文科省もまた、特別チームを立ち上げ、学校や教育委員会の対応を検証するとともに、同じようなトラブルに巻き込まれている子どもがいないか緊急の全国調査を行うという。
 この間の事情は〝中学生殺害事件受け児童生徒対応など指針作成へ〟と題した、NHKニュース(3月5日)に詳しい。
 「川崎市で中学1年の男子生徒が殺害された事件を受けて、文部科学省の特別チームが、子どもたちの命に関わる危険性を見落とさないよう、指針をまとめることになりました。
 文部科学省の特別チームは昨日、2回目の会議を開きました。
 今回の事件で殺害された男子生徒は今年に入って全く学校に通っていませんでしたが、学校や教育委員会は男子生徒の状況を十分に把握できていなかったとみられています。
このため昨日の会議では、子どもたちの命に関わる危険性を見落とさないよう、対応のあり方をまとめた指針を作ることを決めました。指針では、不登校や学校を休みがちな児童生徒のなかにトラブルを抱えているケースがないか、いち早くつかむための方法や、警察や児童相談所との連携のあり方などを示すということです。
 現在、川崎市教育委員会が検証委員会を設けて当時の対応を検証していて、今月中に中間の取りまとめを予定していることから、特別チームではその結果を踏まえて指針を作成し、全国の学校や教育委員会に周知することにしています。」
 各地の教育委員会では、早速にも、欠席が続いている児童生徒の状況把握をするよう動き出し、川崎市教育委員会では早々と子どもや保護者らの緊急相談を電話で受け付ける「ダイヤルSOS」を設置したという。こうした事件の受け止め方、また対策の進め方、まさに正道である。だがしかし、遺憾ながら、こうした流れの中で行われる向後の対策が、同種事件の再発を防止していくようには思われない。なぜなら此度の対策の有り様が、事件内容に違いがあるにせよ、近年に生じ、世間と教育界を震撼させた二つの事件、即ち、①いじめが原因の「大津市中2自殺事件」(11/10/11)、②教師の体罰が原因の「桜宮高2自殺事件」(12/12/23)の場合と内容的にほとんど変わらず、それらの事後状況を見れば、前者の轍を踏むのは瞭然なのである。
 ①の事件の折には、事件が誘因となって、その翌年、国会で「いじめ防止対策推進法」なるものが成立し、②の事件の後には、文科省によって各地教育委員会等に当てた「体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について(通知)」が出され、それらに基づきながら、その後の学校・教育界は、関連機関の協力を求めつつ、挙げていじめ防止と体罰教師の撲滅を目指した(はずである)。にも拘わらず、学校内いじめは一向に減少せず、また、体罰教師についても同様、事件後の12年度および13年度では、懲戒免職や訓戒などの処分を受けた教師数は11年度の426名から2253、3953名へと大きく上昇し、過去最高を更新し続けている。(文科省公立校調査 15/1/30)。
 正しい方向性をもった対策を立てながら、なに故に、こうした結果に至っているのか。一見,難しい問題に見えるが、私の我田引水的な偏見と独断に基づけば、これは以下の2つの要因をもって簡単に説明できる。
① 対策は理念先行の具体性なき総論に終わっている。
 警察や児童相談所との連携もよし、電話相談もよし。しかし、何をどのように連携し、相談し、また、連携し相談した後の実際的指導はどうするのか。現下の各組織体制の下、ケースの処理に役立つ具体的な方策や手段がないまま行われるのでは、連携も相談も、現実に深刻な事態の子どもを救い出すことはできない。経験豊富な関係者なら、すぐにも理解できるはずである。
② 教育・指導の中心たるべき、肝心要の学校教師の資質向上に向けての施策がない。
 児相職員もよし、警察職員もよし、またカウンセラーもよいが、児童・生徒の適応指導については、学習指導同様、日常的に指導関係を有している学校教師が最も重要なキーマンである。この教師の資質・専門性の向上こそ最重要課題であることが明白でありながら、教師の人物・識見・技能を高めるための施策がほとんど見られず、まして、教師の資質全般を象徴するやもしれぬ体罰教師数が増加の一途となれば、もはや、何をか言わんやではなかろうか。
さてさて、独断と偏見の結論を言えば、此度の文科省および各教育委員会の対策の有り様はまさしく前車の轍を踏むもので、同種事件の再発防止はもちろん、生徒たちの全般的な不適応行動の防止に貢献しうるとはとても思えない。これらの防止には、まずは、教師集団全般の資質向上こそ必要不可欠、さらに言うなら、子どもたちによって信頼され、通常では「従いていきたい」、苦難の折には「助けてもらいたい」という思いを呼び起こす教師を育成することである。そして、こうした信頼や思念や関係性を導き出す源、それが即ち、「教師の権威」であり、これの向上を目指す以外に子どもたちを救う道はないのである。
 私は、たくさんの小・中・高の児童・生徒を対象に「先生の言うことに従うのはなぜですか」と問う形式の教師の権威に関する質問紙調査を行い、その因子分析結果に基づき、教師の権威を次の四本柱にまとめた。
 ① 教師の学識・技能に基づく「専門性権威」 
 ② 教師の人格と人間性に基づく「人格的権威」
 ③ 教師と生徒の人間関係から生じる「関係性権威」 
 ④ 教師の統制力から生じる「統制的権威」
 初めの二つの権威(専門性・人格性)は、教師が生徒との指導関係を離れても基本的に持っていなければならない一次的権威、あとの二つ(関係性・統制性)は、教師と児童生徒が具体的な関係を持つ中で派生してくる二次的権威である。権威という言葉を用いると、ややもするといわゆる「権力」と誤解され、未熟な教師は「毅然たる教師」を目指してやたら権力的に体罰(暴力)を振るいたがるが、権威と権力は厳然と異なるものであり、むしろ相反する概念である。これについては、いくつかの良書を措いて、私の書から引いてみよう。
 「たしかに、権威(authority)と権力(power)は、どちらも〝他者を従わせる力〟であり、似た言葉です。しかし、権威と権力は、互いに関連してはいるものの、明らかに異なる概念です。何故なら、地位や役割、警察力や軍事力などの外的・物理的な力に頼って強制的に従わせるのが「権力」であり、学識や人格、道徳や伝統などの内的・精神的な力に基づいて自発的に従わせるのが「権威」であって、すなわち、従わせる側と従う側との関係が、権力が外的・強制的であるのに対して、権威は内的・自発的、つまり権力と権威は、従わせる側の力の性質と従う側の心理的状況がまったく相反する異質の〝力〟なのです。となれば、教師の権威と教師の権力もまた、全く相反するものであることが理解されると思います。」(『教師の権威と指導力』2012)
 教師としての権威を認められている教師は、それが部分的な要素の一つであれ二つであれ、究極のところ、信頼できる教師、そして困ったときには助けを求めにいくことのできる教師となり得て、実際に苦難の生徒を救い出すことができる。以下に、権威の認められている教師が苦境に陥っている生徒を救い出した参考事例を挙げて、本稿の締めとしたい。事例1と事例2は、明星大学教授時代、某県・某中学校に週一日の訪問スクールカウンセラー(SC)として出向いていたときのもの、(事例中、SCは筆者を指す)、事例3は、遙かに遠い私の高校3年時における、昔懐かしい恩師の思い出の一齣である(上掲『教師の権威と指導力』より抽く)。

<事例1><事例2><事例3>

 くり返したい。「教師はすべからく〝権威〟を持つべし」。
 生徒に対する指導は、その内容が何であれ(学業であれ、生活指導であれ、スポーツなど課外活動であれ)、およそ教師が、生徒たちから指導を受けるに足る人物として認められることによって成り立つ。生徒と教師がこのような関係性によって結ばれるとき、教師は「権力にあらざる真の〝権威〟」を有し、掛け替えのない誇り高き教育専門職となっている。

* 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手を下されば、有難く存じます。

学問・科学の原点:格差を無くし、誰をも幸せに。-故、宇沢弘文氏に学ぶ -

  「イスラム国」の暴虐は〝敗者(から)の裁き〟

 日本の「平和主義」を逆手にとって日本国民・国家を脅迫する「イスラム国による人質身代金要求事件、ついに人質殺害の局面に至った。
  正月三が日を健勝に過ごしたのも束の間、突然原因不明の「風邪」に襲われ、その咳・痰・肩こり・高熱の苦しみから抜け出る徴候が見え始めたのがほぼ半月後、やっと起き出て医者に通って帰宅した途端、これはまた大変なニュースが飛び込み、躰中に再び高熱が渦巻いた。「イスラム国」による二人の日本人拘束、しかも斬首殺害の脅迫をしつつ2億ドルという破格の身代金を要求する事件。
 イスラム過激派によるフランスの新聞社襲撃テロ事件の直後でもある。早速、当然の如く、同様事件で身代金を拒否した揚げ句に拉致被害者の首を断たれたアメリカ政府が、我が国政府に対して身代金を断固拒否する毅然たる態度を求め、「イスラム国」壊滅で連帯する諸国も我が国の対応を熱視線を持って見守る。政府のみにあらず、「平和国日本」を標榜する日本人はこぞって今、この問題にいかに対処できるのか、苦慮しつつもしかし、今更ながらの無力感にとらわれる。
 「イスラム国」の台頭以来、この種の事件がいつ生じても不思議ではない情勢だったが、いざ実際に惹起してしまえば、いくら〝中立〟の「平和国日本」を訴えても無法な相手を納得させる妥当な解決手段などあろうはずもない。身代金を払うにせよ、身代金を拒否して被害者を死に至らせるにせよ、どちらの結果も「平和国日本」は、かくたる事象にいかに取り組むべきか、その立ち位置を根底から揺さぶられ、面目を失って国際的にも重大な危機にさらされる。拉致された二人の日本人は、何故に何故に、無謀な「イスラム」渡航を企て、かくなる結果を呼び起こしたのか―と、無念の思いも消え去らぬなか、追い打ちをかけるように人質殺害のニュース……。それにしても、それにしても、「イスラム国」とは一体、何ものなるか。
  昨年(2014年)9月、世界的に著名な経済学者・宇沢弘文氏が亡くなった。享年86。その宇沢氏を取り上げたNHKテレビ大晦日早朝番組の「耳をすませば」を見て刺激され、経済学のあるべき姿について語る弘文氏を振り返った同年10月30日放送の「クローズアップ現代」をNHKインターネットオンラインで視聴し、改めてまた感動した。
 〝経済学の原点は人間、人間でいちばん大事なのは、実は心なんだね。その心をね、大事にする。一人ひとりの人間のね、生きざまをね、全うするっていうのがね、実は経済学の原点でもあるわけね〟
 訥々と、経済学のあるべき姿について、氏は語る。もって肝に銘じる内容、その一端を敷衍すれば、「経済学は、効率重視、競争原理をもって単に個人や企業さらには国家の繁栄をもたらすことを目的とする学問ではなく、社会間、個人間、国家間に広がる格差をなくし、ひろく人間・国際社会に幸せをもたらすための学問でなくてはならない」。思わず膝を打った。これは、ひとり経済学に留まらず、あらゆる学問・科学、そしてあらゆる人間活動に通底する天理ではないか。個人と言わず、集団と言わず、また国家と言わず、競争原理のもと、格差を求め、勝利者になろうとするのが今の世の常なら、必然的に敗者が生まれ、敗者はひたすらに耐え、いつかその鬱憤を晴らす機会を探すのもまた、世の常だろう。
 民族、価値観、文化の違いはあっても、誰しも、幸せに生きたい、幸せになりたいと思っている。人の思いは、皆同じだ。その思いが根底から打ち砕かれたとき、人はその鬱憤を内にこもらせて心を病むか、あるいは外に暴発・発散させて、せめてもの心を立てる。この事実は、私たちの周囲に満ちあふれるたくさんの非社会的精神疾患や殺人その他極端な反社会的行動をみればたちまちに理解できる。未だにその残響消えやらぬオウム真理教のテロ・殺人行為など、まさしくその一つの例証である。思えば、かの「イスラム国」の人たちもなべて、およそ尋常ならざる怒りと怨念に満ちあふれ、それを晴らすことこそ〝正義〟だと思い込み、手段を選ばぬ命がけの戦いに走っている。「イスラム国」の奥深い成立由来については、私ごときが到底把握できるところではないが、心理社会的な視点から言えば、少なくともその指導者たちと兵士たちは、ともに育ち来たった世界(環境)の中では様々な形で決定的な〝敗者〟であり、それを逆転して〝勝者〟になるためにこそ、既成体制に挑戦するテロと戦闘をもって集結している、と言い得よう。
  効率重視の競争原理のなかでは優勝劣敗・適者生存、敗者は非情にも捨て去られる。先に挙げた宇沢弘文氏は、ベトナム戦争時に少壮のシカゴ大学教授だったが、勝つためには水爆の使用もよしとする同僚教授等の存在に激怒し、絶望して母国日本に帰ってきた。まこと、人とは(また、国とは)、いつかここまで非情になれるものではある。故にこそ、「イスラム国」をして狂気、残虐、非道と罵る前に、私たちもまた(国、社会もまた)、資本主義社会のあり方も含めて、日頃依拠する学問・科学と自ら行う行動のすべてが、「人の心」を平然と傷つけてたくさんの〝敗者〟を生み出し、いつか平和と安寧に仇なす人々をつくり出すことにくみしてはいなかったか、真摯に内省してみる要がありはしないか-。
 太平洋戦争終了後の「東京裁判」には、とりわけ敗戦国側から見れば数多の理不尽があるやに思われた。これをして〝勝者の裁き〟と言うなら、「イスラム国」による一連の暴虐は、〝敗者(から)の裁き〟と呼べるかもしれぬ。
  明けて新年、30日遅れの、遅ればせながらの所感であった。

* 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手を下されば、有難く存じます。

横綱は美学を持つもの

 稀勢の里が、姑息な手を用いなくなって久しい。にらみ合ったり、張り手をはったり、引いたり、はたいたり…。比べて、横綱白鳳。確かにうまくて強い。が、体をきちんと拭かないまま立ち合う、あの悪癖はどうも気になる。昨日、対栃煌山戦で、押されて危機一髪の土俵際で残し、逆襲して勝利を得たが、立ち会い前に胸部や腹部の汗をきちんと拭いていれば、両者の体は密着し、そのまま寄り切られていただろう。ボクシングの選手がやたら顔面に油を塗って,相手のパンチの威力をそぐやり方に似て、戴けない。日本の伝統文化、相撲道に目覚めた感のある稀勢の里。日本人のモデルともなる、美学を持った横綱へ。期待してやまない。

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宗内 敦(カラーピラミッド)

Author:宗内 敦(カラーピラミッド)
教育・文芸同人誌『琅』発行人
「書肆彩光」代表者
日本教育心理学会会員
日本ペンクラブ会員

 

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