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コピペ(剽窃)は止めよう、敢えてやるなら(寺山)修司のレベル(新しい世界)で-「教師の権威」に因んで-

 今回も、ちょっぴり長い。ご容赦あれ。
 前回ブログでは、川崎市男子生徒殺害事件に因んで、「危機を救えるのは教師だけ-教師はすべからく〝権威〟を持て」と題して、あらゆる教育・指導の根源たる「教師の権威」について力説した。実はこのテーマ、「カラー・ピラミッド・テスト」と並んで、いわば、私のライフワークである。この理論と実践をたくさんの教育関係者に学んでもらいたく、『指導力の豊かな先生』(1988)に始まり、『先生、出番です』(2007)、『教師の権威と指導力』(2012)と、版を重ねてきた。ありがたいことに、初版の『指導力の豊かな先生』は7刷までゆき、2版もそこそこ、3版の『教師の権威と指導力』もまた、わずか限定100部刊行の自費出版ではあるが、このほど第2刷に入っている。そして、心ある読者からのコメントもいろいろ聞こえて、私を痛く喜ばせている。
  しかし、世はまさにインターネット時代、反響の多くは私のあずかり知らぬネット上で流れ、時には今はやりのコピペで堂々と剽窃され、かつ誤用されて、その悪しき影響などありはしないかと、痛く懸念もさせてくれる。では、事ほど左様に取り上げられる私の原著はいかなるものか。前ブログでもかなり引用・抜粋したが、主題に関して故なしとはしない一節を、ここでさらに付け加えてみよう。

「子どもの逸脱した行動に対して教師がどのように対処するか(教師の統制力)、子どもたちは大きな関心を持って見ています。そして、教師の能力を厳しく評価します。騒ぐ子や逆らう子にお手上げの先生を見ると、まじめな子もふまじめな子も、当事者の子も非当事者の子も、
“あんなもんか、この先生”
“こりやぁ、教えることもたいしたことはないな”
“こんな先生の言うことなんか、聞くのは嫌だ”
 と、すっかり評価を下げ、これが原因となって指導力を低下させることにもなっていきます。
 逆に、問題の子どもや行動をきちっと抑えると、
“やるぅー。先生はこうでなくっちゃ”
“甘かぁないぞ、しっかりやらなくっちゃ”
  と、評価を上げ、指導力を向上させます。
  統制的な力を発揮するには、あとで述べるように、教師という地位と役割をたくみに利用して、自らの持っている他の教師権威に橋渡しをしてやることが必要です。地位と役割を利用することは、立派に権力的な行為ですが、これなくして、教師の指導力は完全なものにはなりません。権力的側面を含む統制力は、教師権威の重要な柱なのです。
  実際に、権威についての実証的研究でも、先駆的研究から現在の研究にいたるまで、権威の一つの柱に権力的側面を含めています。権威の研究のはしりになりますが、フレンチ(一九五九)という人は報償力、準拠力、専門力とともに正当力と強制力を権威の柱にしています。日本での研究でも、佐賀大学の田崎敏昭先生(一九七五年)が親近・受容、外見性、明朗性、熟練性、同一化のほかに正当性と罰をあげ、兵庫教育大学の浜名外喜男先生たち(一九八三年)も人間的配慮、外面性のほかに、まったく同じように罰と正当性をあげています。
 私も田崎先生にならい、たくさんの小・中・高の児童生徒を対象に
“先生の言うことに従うのはなぜですか”
 と問う形式の教師の権威に関する質問紙調査を何回も行ってみました。やはり、どの場合でも必ず、権威の一つの因子に罰や正当性などの権力的側面が出てきました。ここで、つけ加えておくと、正当性の権威とは“教師という役割がいろいろな権力的行為をなし得る正当性や必然性を持っているという(児童生徒の)認識から生まれる権威”です。
 このような研究の成果に教育臨床的な観察を加えて、私は教師の権威を次の四本柱にまとめました。
 ① 教師の学識・技能に基づく“専門性権威” 
 ② 教師の人格と人間性に基づく“人格的権威”
 ③ 教師と生徒の人間関係から生じる“関係性権威” 
 ④ 教師の統制力から生じる“統制的権威”
 なお、初めの二つの権威(専門性・人格性)は、教師が生徒との指導関係を離れても基本的に持っていなければならない一次的権威、あとの二つ(関係性・統制性)は、教師と児童生徒が具体的な関係を持つ中で派生してくる二次的権威と見ることができます。」(『教師の権威と指導力』39-41頁)

  「教師の権威」についての私の著作に関する記事の多くは、要点抜粋の短いコメントである。例えば「フトシさん」の「権力ではなく権威が教師に欠けていて、かつ必要とされる資質だといった内容です。権威と権力については、これをテーマとする良書が他にもたくさんあります。本書では指導力を発揮するためにという視点で、豊富な事例とともに語られています。」とか「よしドンブログ」氏の「読んでいると“なるほど”と感じられることばかりでした。タイトルの“教師の権威と指導力”というと固く感じられてしまいがちですが、まさに今抱えている問題の根底はここにあると思いました。子どもとの関係性を結ぶことの大切さを改めて教えてもらいました。」
   しかし、時には次の如き長文のものもある。

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「教師はすべからく〝権威〟を持て」、生徒の危機を救えるのは教師だけ -川崎市男子生徒殺害事件に因んで-

「教師はすべからく〝権威〟を持て」、生徒の危機を救えるのは教師だけ
  -川崎市男子生徒殺害事件に因んで-

「教師はすべからく〝権威〟を持つべし」。教育臨床心理学者として信じてやまない私の持論である。それ故にこそ、敢えて、『指導力の豊かな先生』(図書文化 1988)と『先生、出番です』(雇用問題研究会2007)を合わせて一本の、教師権威の理論と実践の書『教師の権威と指導力』を出版した(書肆彩光 2012)。思いは一筋、教師の専門性を高め、教育職を真の専門職たらんとするためである。しかしながら、教育職の専門職への道は遠い。その専門性が云々される出来事がまたしても生じた。

 川崎市川崎区の多摩川河川敷に、深夜未明(2/20)、中学1年の男子生徒が刺殺されたまま放置されるという無残な事件が発生した。犯人として17、18歳の少年3人が逮捕されたが、被害者は加害者らのグループと交遊するようになって不登校状態(不登校)に陥り、いつか、腫れ上がるほどに顔面を打たれるなど、主犯格の少年から暴力的支配を受けるようになり、揚げ句に事件当日、無理矢理冷たい川で泳がされた後、カッターナイフで嬲るように刺殺されたというものである。
 事件は、家庭事情、地域社会状況、交友関係など、子どもを取り巻く環境が多様化するなかで、それらが複雑に錯綜して生じた。事件被害者が学校不適応に陥ってから事件に至るまでの経緯が明らかになるにつれ、衝撃を受けた川崎市当局は、「教育現場だけの問題対応では難しい」として庁内対策会議を設置し、市教委が出した解明結果を踏まえ、子どもや福祉の担当部署と連携し再発防止策を検討することになった。これを受けて、文科省もまた、特別チームを立ち上げ、学校や教育委員会の対応を検証するとともに、同じようなトラブルに巻き込まれている子どもがいないか緊急の全国調査を行うという。
 この間の事情は〝中学生殺害事件受け児童生徒対応など指針作成へ〟と題した、NHKニュース(3月5日)に詳しい。
 「川崎市で中学1年の男子生徒が殺害された事件を受けて、文部科学省の特別チームが、子どもたちの命に関わる危険性を見落とさないよう、指針をまとめることになりました。
 文部科学省の特別チームは昨日、2回目の会議を開きました。
 今回の事件で殺害された男子生徒は今年に入って全く学校に通っていませんでしたが、学校や教育委員会は男子生徒の状況を十分に把握できていなかったとみられています。
このため昨日の会議では、子どもたちの命に関わる危険性を見落とさないよう、対応のあり方をまとめた指針を作ることを決めました。指針では、不登校や学校を休みがちな児童生徒のなかにトラブルを抱えているケースがないか、いち早くつかむための方法や、警察や児童相談所との連携のあり方などを示すということです。
 現在、川崎市教育委員会が検証委員会を設けて当時の対応を検証していて、今月中に中間の取りまとめを予定していることから、特別チームではその結果を踏まえて指針を作成し、全国の学校や教育委員会に周知することにしています。」
 各地の教育委員会では、早速にも、欠席が続いている児童生徒の状況把握をするよう動き出し、川崎市教育委員会では早々と子どもや保護者らの緊急相談を電話で受け付ける「ダイヤルSOS」を設置したという。こうした事件の受け止め方、また対策の進め方、まさに正道である。だがしかし、遺憾ながら、こうした流れの中で行われる向後の対策が、同種事件の再発を防止していくようには思われない。なぜなら此度の対策の有り様が、事件内容に違いがあるにせよ、近年に生じ、世間と教育界を震撼させた二つの事件、即ち、①いじめが原因の「大津市中2自殺事件」(11/10/11)、②教師の体罰が原因の「桜宮高2自殺事件」(12/12/23)の場合と内容的にほとんど変わらず、それらの事後状況を見れば、前者の轍を踏むのは瞭然なのである。
 ①の事件の折には、事件が誘因となって、その翌年、国会で「いじめ防止対策推進法」なるものが成立し、②の事件の後には、文科省によって各地教育委員会等に当てた「体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について(通知)」が出され、それらに基づきながら、その後の学校・教育界は、関連機関の協力を求めつつ、挙げていじめ防止と体罰教師の撲滅を目指した(はずである)。にも拘わらず、学校内いじめは一向に減少せず、また、体罰教師についても同様、事件後の12年度および13年度では、懲戒免職や訓戒などの処分を受けた教師数は11年度の426名から2253、3953名へと大きく上昇し、過去最高を更新し続けている。(文科省公立校調査 15/1/30)。
 正しい方向性をもった対策を立てながら、なに故に、こうした結果に至っているのか。一見,難しい問題に見えるが、私の我田引水的な偏見と独断に基づけば、これは以下の2つの要因をもって簡単に説明できる。
① 対策は理念先行の具体性なき総論に終わっている。
 警察や児童相談所との連携もよし、電話相談もよし。しかし、何をどのように連携し、相談し、また、連携し相談した後の実際的指導はどうするのか。現下の各組織体制の下、ケースの処理に役立つ具体的な方策や手段がないまま行われるのでは、連携も相談も、現実に深刻な事態の子どもを救い出すことはできない。経験豊富な関係者なら、すぐにも理解できるはずである。
② 教育・指導の中心たるべき、肝心要の学校教師の資質向上に向けての施策がない。
 児相職員もよし、警察職員もよし、またカウンセラーもよいが、児童・生徒の適応指導については、学習指導同様、日常的に指導関係を有している学校教師が最も重要なキーマンである。この教師の資質・専門性の向上こそ最重要課題であることが明白でありながら、教師の人物・識見・技能を高めるための施策がほとんど見られず、まして、教師の資質全般を象徴するやもしれぬ体罰教師数が増加の一途となれば、もはや、何をか言わんやではなかろうか。
さてさて、独断と偏見の結論を言えば、此度の文科省および各教育委員会の対策の有り様はまさしく前車の轍を踏むもので、同種事件の再発防止はもちろん、生徒たちの全般的な不適応行動の防止に貢献しうるとはとても思えない。これらの防止には、まずは、教師集団全般の資質向上こそ必要不可欠、さらに言うなら、子どもたちによって信頼され、通常では「従いていきたい」、苦難の折には「助けてもらいたい」という思いを呼び起こす教師を育成することである。そして、こうした信頼や思念や関係性を導き出す源、それが即ち、「教師の権威」であり、これの向上を目指す以外に子どもたちを救う道はないのである。
 私は、たくさんの小・中・高の児童・生徒を対象に「先生の言うことに従うのはなぜですか」と問う形式の教師の権威に関する質問紙調査を行い、その因子分析結果に基づき、教師の権威を次の四本柱にまとめた。
 ① 教師の学識・技能に基づく「専門性権威」 
 ② 教師の人格と人間性に基づく「人格的権威」
 ③ 教師と生徒の人間関係から生じる「関係性権威」 
 ④ 教師の統制力から生じる「統制的権威」
 初めの二つの権威(専門性・人格性)は、教師が生徒との指導関係を離れても基本的に持っていなければならない一次的権威、あとの二つ(関係性・統制性)は、教師と児童生徒が具体的な関係を持つ中で派生してくる二次的権威である。権威という言葉を用いると、ややもするといわゆる「権力」と誤解され、未熟な教師は「毅然たる教師」を目指してやたら権力的に体罰(暴力)を振るいたがるが、権威と権力は厳然と異なるものであり、むしろ相反する概念である。これについては、いくつかの良書を措いて、私の書から引いてみよう。
 「たしかに、権威(authority)と権力(power)は、どちらも〝他者を従わせる力〟であり、似た言葉です。しかし、権威と権力は、互いに関連してはいるものの、明らかに異なる概念です。何故なら、地位や役割、警察力や軍事力などの外的・物理的な力に頼って強制的に従わせるのが「権力」であり、学識や人格、道徳や伝統などの内的・精神的な力に基づいて自発的に従わせるのが「権威」であって、すなわち、従わせる側と従う側との関係が、権力が外的・強制的であるのに対して、権威は内的・自発的、つまり権力と権威は、従わせる側の力の性質と従う側の心理的状況がまったく相反する異質の〝力〟なのです。となれば、教師の権威と教師の権力もまた、全く相反するものであることが理解されると思います。」(『教師の権威と指導力』2012)
 教師としての権威を認められている教師は、それが部分的な要素の一つであれ二つであれ、究極のところ、信頼できる教師、そして困ったときには助けを求めにいくことのできる教師となり得て、実際に苦難の生徒を救い出すことができる。以下に、権威の認められている教師が苦境に陥っている生徒を救い出した参考事例を挙げて、本稿の締めとしたい。事例1と事例2は、明星大学教授時代、某県・某中学校に週一日の訪問スクールカウンセラー(SC)として出向いていたときのもの、(事例中、SCは筆者を指す)、事例3は、遙かに遠い私の高校3年時における、昔懐かしい恩師の思い出の一齣である(上掲『教師の権威と指導力』より抽く)。

<事例1><事例2><事例3>

 くり返したい。「教師はすべからく〝権威〟を持つべし」。
 生徒に対する指導は、その内容が何であれ(学業であれ、生活指導であれ、スポーツなど課外活動であれ)、およそ教師が、生徒たちから指導を受けるに足る人物として認められることによって成り立つ。生徒と教師がこのような関係性によって結ばれるとき、教師は「権力にあらざる真の〝権威〟」を有し、掛け替えのない誇り高き教育専門職となっている。

* 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手を下されば、有難く存じます。

学問・科学の原点:格差を無くし、誰をも幸せに。-故、宇沢弘文氏に学ぶ -

  「イスラム国」の暴虐は〝敗者(から)の裁き〟

 日本の「平和主義」を逆手にとって日本国民・国家を脅迫する「イスラム国による人質身代金要求事件、ついに人質殺害の局面に至った。
  正月三が日を健勝に過ごしたのも束の間、突然原因不明の「風邪」に襲われ、その咳・痰・肩こり・高熱の苦しみから抜け出る徴候が見え始めたのがほぼ半月後、やっと起き出て医者に通って帰宅した途端、これはまた大変なニュースが飛び込み、躰中に再び高熱が渦巻いた。「イスラム国」による二人の日本人拘束、しかも斬首殺害の脅迫をしつつ2億ドルという破格の身代金を要求する事件。
 イスラム過激派によるフランスの新聞社襲撃テロ事件の直後でもある。早速、当然の如く、同様事件で身代金を拒否した揚げ句に拉致被害者の首を断たれたアメリカ政府が、我が国政府に対して身代金を断固拒否する毅然たる態度を求め、「イスラム国」壊滅で連帯する諸国も我が国の対応を熱視線を持って見守る。政府のみにあらず、「平和国日本」を標榜する日本人はこぞって今、この問題にいかに対処できるのか、苦慮しつつもしかし、今更ながらの無力感にとらわれる。
 「イスラム国」の台頭以来、この種の事件がいつ生じても不思議ではない情勢だったが、いざ実際に惹起してしまえば、いくら〝中立〟の「平和国日本」を訴えても無法な相手を納得させる妥当な解決手段などあろうはずもない。身代金を払うにせよ、身代金を拒否して被害者を死に至らせるにせよ、どちらの結果も「平和国日本」は、かくたる事象にいかに取り組むべきか、その立ち位置を根底から揺さぶられ、面目を失って国際的にも重大な危機にさらされる。拉致された二人の日本人は、何故に何故に、無謀な「イスラム」渡航を企て、かくなる結果を呼び起こしたのか―と、無念の思いも消え去らぬなか、追い打ちをかけるように人質殺害のニュース……。それにしても、それにしても、「イスラム国」とは一体、何ものなるか。
  昨年(2014年)9月、世界的に著名な経済学者・宇沢弘文氏が亡くなった。享年86。その宇沢氏を取り上げたNHKテレビ大晦日早朝番組の「耳をすませば」を見て刺激され、経済学のあるべき姿について語る弘文氏を振り返った同年10月30日放送の「クローズアップ現代」をNHKインターネットオンラインで視聴し、改めてまた感動した。
 〝経済学の原点は人間、人間でいちばん大事なのは、実は心なんだね。その心をね、大事にする。一人ひとりの人間のね、生きざまをね、全うするっていうのがね、実は経済学の原点でもあるわけね〟
 訥々と、経済学のあるべき姿について、氏は語る。もって肝に銘じる内容、その一端を敷衍すれば、「経済学は、効率重視、競争原理をもって単に個人や企業さらには国家の繁栄をもたらすことを目的とする学問ではなく、社会間、個人間、国家間に広がる格差をなくし、ひろく人間・国際社会に幸せをもたらすための学問でなくてはならない」。思わず膝を打った。これは、ひとり経済学に留まらず、あらゆる学問・科学、そしてあらゆる人間活動に通底する天理ではないか。個人と言わず、集団と言わず、また国家と言わず、競争原理のもと、格差を求め、勝利者になろうとするのが今の世の常なら、必然的に敗者が生まれ、敗者はひたすらに耐え、いつかその鬱憤を晴らす機会を探すのもまた、世の常だろう。
 民族、価値観、文化の違いはあっても、誰しも、幸せに生きたい、幸せになりたいと思っている。人の思いは、皆同じだ。その思いが根底から打ち砕かれたとき、人はその鬱憤を内にこもらせて心を病むか、あるいは外に暴発・発散させて、せめてもの心を立てる。この事実は、私たちの周囲に満ちあふれるたくさんの非社会的精神疾患や殺人その他極端な反社会的行動をみればたちまちに理解できる。未だにその残響消えやらぬオウム真理教のテロ・殺人行為など、まさしくその一つの例証である。思えば、かの「イスラム国」の人たちもなべて、およそ尋常ならざる怒りと怨念に満ちあふれ、それを晴らすことこそ〝正義〟だと思い込み、手段を選ばぬ命がけの戦いに走っている。「イスラム国」の奥深い成立由来については、私ごときが到底把握できるところではないが、心理社会的な視点から言えば、少なくともその指導者たちと兵士たちは、ともに育ち来たった世界(環境)の中では様々な形で決定的な〝敗者〟であり、それを逆転して〝勝者〟になるためにこそ、既成体制に挑戦するテロと戦闘をもって集結している、と言い得よう。
  効率重視の競争原理のなかでは優勝劣敗・適者生存、敗者は非情にも捨て去られる。先に挙げた宇沢弘文氏は、ベトナム戦争時に少壮のシカゴ大学教授だったが、勝つためには水爆の使用もよしとする同僚教授等の存在に激怒し、絶望して母国日本に帰ってきた。まこと、人とは(また、国とは)、いつかここまで非情になれるものではある。故にこそ、「イスラム国」をして狂気、残虐、非道と罵る前に、私たちもまた(国、社会もまた)、資本主義社会のあり方も含めて、日頃依拠する学問・科学と自ら行う行動のすべてが、「人の心」を平然と傷つけてたくさんの〝敗者〟を生み出し、いつか平和と安寧に仇なす人々をつくり出すことにくみしてはいなかったか、真摯に内省してみる要がありはしないか-。
 太平洋戦争終了後の「東京裁判」には、とりわけ敗戦国側から見れば数多の理不尽があるやに思われた。これをして〝勝者の裁き〟と言うなら、「イスラム国」による一連の暴虐は、〝敗者(から)の裁き〟と呼べるかもしれぬ。
  明けて新年、30日遅れの、遅ればせながらの所感であった。

* 世の中のためによかれと思いつつ書いています。共感くださったときには、拍手を下されば、有難く存じます。

横綱は美学を持つもの

 稀勢の里が、姑息な手を用いなくなって久しい。にらみ合ったり、張り手をはったり、引いたり、はたいたり…。比べて、横綱白鳳。確かにうまくて強い。が、体をきちんと拭かないまま立ち合う、あの悪癖はどうも気になる。昨日、対栃煌山戦で、押されて危機一髪の土俵際で残し、逆襲して勝利を得たが、立ち会い前に胸部や腹部の汗をきちんと拭いていれば、両者の体は密着し、そのまま寄り切られていただろう。ボクシングの選手がやたら顔面に油を塗って,相手のパンチの威力をそぐやり方に似て、戴けない。日本の伝統文化、相撲道に目覚めた感のある稀勢の里。日本人のモデルともなる、美学を持った横綱へ。期待してやまない。

過ぎたるは及ばざるが如し―教育・しつけ・指導における副作用―

 何事かを成そうとすれば、目的を持って目標に向かい、いくつかの手段を用いて対象に迫る。大抵の場合、それは何ほどかの効果を上げるが、しかし、一方で、それとは裏腹に、なにがしかの逆効果を生むことも少なくない。これは副作用とでも呼称してよかろうか。こうした意味の副作用という言葉はいろいろな領域で、極めて普遍的に、そのマイナス効果を取り扱うときに用いられる。例えば最近(9・30)、臨時国会の最初の論戦となった衆院代表質問で、民主党代表の海江田万里氏は、昨今景気の回復に大いに役立っている円安について、中小企業の倒産にも繋がるなど、様々なマイナス効果を列挙し、「今まさに安部経済政策の副作用が表面化し始めている」と述べている。ついでながら、これに関連して、次のような新聞記事がある。
「『少しつらいが、自炊を増やすしかないな』。熊本市で電気設備の中小企業に勤める本田雄大(24)は、仕事帰りの午後9時すぎに台所で夕食を作る日が増えた。県内の企業は今春、平均1.3%の賃上げを実施したが、熊本市内の消費者物価上昇率(8月、3.6%)には及ばない。……都市と地方、高齢者と若者、大企業と中小企業……。リフレ政策の効果と副作用の影響がばらつくにつれ、世間の視線は格差に向く」(10・25「日経」朝刊)。
 さて、この一、二ヶ月、女子高校生による痛ましい殺人事件が続き、世間を震撼させている。一つは、過ぐる7月下旬、高校1年の女子生徒が親交のあった同学年の女子高校生を殺害の上、遺体を損壊したという長崎市における事件、二つは、今月初め、北海道南幌町で起きた、高校2年の女子生徒が同居する祖母と母の二人を刺殺した事件。何ゆえ、こうした異常な行動が……。どちらの事件も、事の真相はまだ定かではない。が、伝え聞くところでは、両者はともに、極めて圧力的な教育・しつけを受け、ままならぬ抑圧的な心境に追い詰めてくる養育者との関係性の中に身を置いていたようである。しかしまた、どちらの少女も、正常な発達を測る有力な指針たり得る学業・学力の水準は一定のレベルを越え、被圧的な環境の中でも必死の心理適応を実現していたようである。となれば、此度の事件は、異常ならざる人格が心理的に追い詰められた末に犯した事件、即ち、養育者の教育・しつけがもたらした、いわゆる副作用ではないか、と言い得よう。
 どの保護者も皆、よかれと思って、それなり懸命に教育・しつけを行っている。そしてそれなりの効果を上げている。ただ、それだけに、裏腹に生じてくる望ましからざる結果は、此度のように大きな出来事が惹起するまで、見逃され、また軽視されやすい。この、いわば教育の副作用は、遺憾ながら、何も子どもたちと保護者の関係に限られるものではなく、学校教育、スポーツ指導その他あらゆる教育・指導関係においても普遍的な事象である。2つの悲劇的な事件を契機に、二言、三言、この問題に触れてみたい。
 
 ところで、「副作用」と聞けば、まずは薬物のそれ(副作用)が頭に浮かぶ。元々この言葉は、ここに語源を持っていると思われ、また、薬物の副作用は、誰の身にもいつ襲いかかってくるかもしれぬ普遍的に危険な現象でもあり、常日頃、私たちはいのちと健康に深く関わるこの問題に強い関心を寄せ、それから逃れる手段をいろいろ模索しているからである。
 ここ数年、子宮頸(けい)がんワクチンによる副作用問題が世間の関心を呼んだが、過日、内科、神経内科、小児科などの専門医らで構成された「難病治療研究振興財団」の研究チームが、厚生労働省に寄せられた約二五〇〇件の子宮頸(けい)がんワクチンによる副作用報告を幅広く調べ直した結果、けいれんや歩行障害、記憶障害などの中枢神経系の障害、視力や聴力の低下などの重い副作用を持つケースが一一一二件の多きにのぼった、と報告した(14・9・14「日経朝刊」)。私たちは、老若男女を問わず、日常的に医療機関を訪れ、様々な薬物を調合・投与されている。この報告は、今さらながら、私たちがいつ「副作用」即ち「薬物被害」に襲われるかも分からないという不安をいっそう強くかき立てる。しかも、それはまさに他人事ではないのである。
 因みに私は、今、深刻な薬物副作用に悩まされている。数年前、さる医科大学の付属病院で「心筋梗塞」の診断を受け、薬物療法が始められ、下記の薬が投与されることになったが、その継続治療の結果である。
①バイアスピリン(朝1錠)②ラベプラゾール(朝1錠)③アイトロール(朝夕各1錠)④エースコール(朝1錠)⑤アーチスト(朝夕各1錠)⑥アトルバスタチン(夕1錠)⑦シグマート(朝夕各1錠)
 初め、薬効はあらたかだった。上り坂を歩けば必ずといってよいほどに胸部に生じていた締め付けられるような痛みがたちまちに失せ、血圧・コレステロール・血糖値などの血液検査の結果や、心電図その他、どこにも異常がなく、検査上は見事な健康体。そしてその後の3ヶ月毎の検診結果もいつも上々だった。そこで1年余り経った頃、薬が一つ(⑦シグマート)減らされた。が、ちょうどその頃、体の変調が始まっていた。血液検査等の結果は変わらず順調なのに、上り坂での胸痛がいつか復活し、やがて咳込み、痰を激しく吐くようになった。そのようになってから何度目かの検診日に担当医に訴えたところ、肺がんや肺炎の有無を調べてみるのはどうかと促され、レントゲン検査を受けたが異常は全く見当たらない。特に問題はないということで、薬の投与はそのまま続けられ、その後の血液検査等の結果はいつも良好そのものだった。しかし、咳・痰の激しさはいっそう増して、日常的に常態化し、吐き出す痰の毎日の量は、猪口一杯分にもなるのではないかと思えるほどになり、加えて目がかすみ、声が嗄れて、何とも息苦しく、かつ生き苦しい状態が続くようになった。それでも、担当医は、血液検査等のあまりの良好さに目が奪われてか、患者の要望にも拘わらず、薬の見直しをするまでには至らなかった。
 私は、インターネット上で、発売元の医薬会社が明かしている各種薬剤の副作用を調べてみた。案の定、②ラベプラゾール(主として胃腸整備剤)と④エースコール(主として血圧降下剤)の副作用欄に、胸痛、狭心症、咳、痰等が記されている。
  このようなとき、患者はどのように対処できるのか。地域医療機能推進紀行(JCHO)理事長・尾身茂氏が同じJCHOの研修センター長で総合診療指導医でもある徳田安春氏の経験例を紹介した「総合診療医」という最近の記事は、大いに参考になる。少し長くなるが引用してみよう。
  「……、さて、あなたが例えば目の病気になったらどうするか。眼科医に診てもらうだろう。当然だ。しかし、人間の体は複雑で原因がわからない場合も結構多い。
 以下、徳田さんの経験談だ。めまいを訴える若い女性。耳鼻科を受診するも耳鼻科的には異常なし。次に脳外科、さらに神経内科と移るが、やはり異常なし。困って総合診療科を受診した。総合診療医の得意技は、家庭環境や心を含めた全体から問題の核心に迫ることだ。症状、病歴をじっくり聞いて診察する。歩行困難に加えて顔のむくみ、声の変化、体重増、皮膚の乾燥があり、甲状腺機能低下症を強く疑う。早速検査すると甲状腺からのホルモン分泌が低いことが判明。ホルモン治療で一件落着。
 ではもう一件。骨粗鬆症の年配女性。最近便秘と筋力低下に悩む。消化器内科、外科、神経科でも原因不明。遂に意識障害に陥って総合診療科へ救急搬送。診察の結果、骨粗鬆症薬のカルシウム剤とビタミンDの過剰投与による副作用と判明した。
 これは氷山の一角だ。高齢になれば一人で複数の症状、病気を持つ。このため、専門科をあちこち回り、処方され薬の山が出来る。薬同士が干渉し思わぬ副作用に悩まされることもまれでない。欧米の調査では専門医と総合診療医が連携する地域では、医療の質が向上するという。わが国で本格的な総合診療医の養成が期待される。」(「日経」朝刊『明日への話題』14・9・4)
 しかし、総合診療医を探したり、このところ言われるセカンドオピニオンを求めたりすることは、言うは易く行うは難いことである。私は独断で、薬の服用量を、回数を制限するなどして三分の二に減らして験してみることにした。そして3ヶ月検診に臨んでみたが、検査の結果は相も変わらず良好。そして次の3ヶ月、また3ヶ月。薬を減らしても血液検査等の結果は変わらず、咳・痰は漸次減少し、やがてその苦しみからかなり解放された。その間、担当医は、「薬を飲み忘れた」と言う患者を暖かく見守っていてくれたが、実はしかし、私が副作用を疑った症状は、これだけではなかった。命には関わりないが、副作用欄には、「女性化乳房」「脱毛」というものも、明示されていて、よくよく気づくと、これらの症状も間違いなくかなり進行していた。いつしか胸部が、肥満した相撲取りのそれの様に膨らみ、これを見ては妻が目を見張り、また、過日、久しぶりに『琅』の会合に出席されたS氏が、「差し障りのある話になるかもしれませんが」と前置いて、薄毛が気になって育毛剤Rを使用したところ効用あらたかだった、と私の頭髪部の変貌ぶりを慮って、そっと暗示的な提案をしたものだった。
 私はさらに実験を試みることにした。今度は検診日まで、朝夕きちんと薬を飲むことにした。半月もすると、咳・痰が激しくなり初め、それでも次の検診日まで服用を続けたところ、以前のように、咳・痰の止むことのない生き苦しい状態がやってきた。私は確かな副作用の存在を確信したが、ここでようやく担当医師とも以心伝心、治療開始後4年有余、副作用を生じていると推測される②ラベプラゾールと④エースコールの両剤が外されることになった。
 それから3ヶ月、私の咳・痰は風や寒気などの刺激によって時折生じる程度にまで減少した。が、後遺症?としての嗄れ声は相も変わらず、また、遺憾ながら、脱毛、女性化乳房の状態は、未だ変貌したままである。
 さて、本題に戻ろう。

 

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宗内 敦(カラーピラミッド)

Author:宗内 敦(カラーピラミッド)
教育・文芸同人誌『琅』発行人
「書肆彩光」代表者
日本教育心理学会会員
日本ペンクラブ会員
”下記の著、拍手・コメントを頂戴した方に贈呈いたしたく。ご希望あれば、ご連絡下さい。”
 ☆『二言、三言、世迷い言』(書肆彩光 1012)
 

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